日常シナリオ

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『大切な一日』

 

■向いているもの
 箱船の出港も間近となってくると、造船所は一際活気を帯びてきていた。
 そんな中、シャオ・ジーランは箱船の最後の仕上げをする現場で肉体労働をしていた。
 といっても常に働いているわけではなく、体力もなくすぐにヘタってしまうといったことを繰り返している。
「アー……やっぱりこういうのは向いていませんね……」
 シャオはそんな言葉を呟きながら造船所に併設されている食堂へ向かった。
 しかし、復活が早いのも彼らしいところだ。
「労働のあとの酒はうまい! みんなで飲めばもっと美味!」
 それからかなりの時間が過ぎた後、いつの間にかシャオはなんとなく見覚えのある顔、といった程度の知り合いと杯を交わしていた。
 酒はかなりの貴重品となっているので食堂からは供されていない。今飲んでいるそれも、杯を交わす相手が持ち込んだものだ。人当りの良い彼は、酒を持っている人間を見つけては一緒になって盛り上がっていたのだった。
「労働っつても、あんた体力全然じゃないか。現場をうろちょろするよりも、飲みたいなら肴でも作ってくれた方が俺たちも嬉しいんだが」
 近くのテーブルから笑いながらの茶々が入る。こういった皮肉っぽい言い方をされるというのも、ある意味親しみやすい彼のキャラクターなのかもしれない。
 一方。
 そんな話を聞いたシャオは、頭の中に光が差し込んだのを感じていた。
(確かに、私は筋肉を使うより料理という頭脳労働のほうが向いているかも)
 そう思うとすぐに身体は動く。立ち上がり、厨房の方へ向かう。
 覗き込んでみると、厨房内の忙しさは一段落し、一部片付けをし始めているような状態になっていた。
 そこに見知った顔を見つける。
 カヤナ・ケイリーだ。
「こんにちは、カヤナさん、なんか浮かれ調子ですね? 何かいいことあったんですか?」
 鼻歌混じりに食堂の片づけをしているカヤナは、いつもと比べてもなんだか浮ついた調子だった。
「あら、そう見える? まあ確かに……良いことは、あったかもね……、って何か用? まだちょっと片づけとかあるんだけど」
 彼女はにこやかな表情で意味ありげにそう話した。本当にテンションが変だ。
 シャオは片づけを手伝う代わりに余りものを使って何か作って良いか、と聞いてみる。
 すると、そこに出てる材料なら余りものだから大丈夫だけど。という声が返ってきた。見ると、野菜の使いかけが残っている。
 それらを見て鍋などを片づける手伝いをしながら何ができるか考えると、思いつくものがあった。
(この鍋なんか私の故郷の揚げ物用の鍋に似ていますね……)
 そんなことを思って鍋を手に取り、油を使っていいか確認して揚げ物を始める。
 レシピははっきり言って勘だ。ただ、最近は料理の技術も上がっている。出来あがった揚げ物は見た目はかなり雑だったが、味はなかなかのものだった。
「見た目はアレですが、これはいける! ありがとうございました!」
 シャオは正体不明の料理を両手にテンション高くと厨房を飛び出していく。
「よくわかんないけど、どういたしましてー!」
(何か分からないけどお幸せに……! しかしカヤナさんは私の母に似てる……なんだろう……)
 元気いっぱいのカヤナの声を聞いてそんなことを考えながらも、シャオの頭の中は新しい商売のことで埋まっていくのだった。


■*決意
 と、ある貴族の館の門前。
 バニラ・ショコラはその館の主の前で語っていた。彼が館から出てくるところを捕まえたのだった。
「そうは言われても、紹介したら紹介した責任というものが出てきてしまうからなぁ……」
 館の主である壮年の男はバニラの話に対し言葉を濁す。
 彼女が依頼しているのはアシル・メイユール伯爵への紹介だった。
 バニラは箱船の送別会で知り合った比較的アシル伯爵に近いこの貴族を通じて伯爵に会い、自分の後見人になってもらおうとしていたのだ。
 しかし何人もいる取り巻きの中でなんとか話ができたのは人の好さそうなこの貴族だけ。しかも、いざ紹介してもらおうと思ってもこのありさまだった。
「でも、世界の悲鳴が聞こえたん……馬鹿らしいって自分でも理解しとるけど」
 そんな悲痛な声も、相手にはいまいち響いてはいないようだ。
「大人に話聞いて、すごく感じた。この世界、一部の神話と歴史がぽっかり欠落しとる。都合のいい歴史すら残てない。これ、異常なん」
 それでもバニラは必死に訴えかけた。
「自然を支配して、力ずくで抑え込もうとしたから、世界が滅びた。王国は制御法を間違えたんと思う」
 熱量高くそんなことも口にする。
「うーん、あんまりそういうことを言わない方が良いと思うよ、いくら子供と言っても」
 しかし、男は今の話が誰かに聞かれていないか気にしているのか、辺りをきょろきょろと見回しながらそんなことを言う。
 だがもちろんそれで止まるバニラではない。
 尚も、自分の考えを滔々と語り続ける。彼女の目的はアシル・メイユール伯爵と何とか話をして自身の話を理解してもらい、聖地関連の研究の理解者、後見人になってもらうことだ。そのためには何としてもここでその取っ掛かりを手に入れたいと、そう考えていた。
 そのことも正直に話し、「だから伯爵しゃまへの紹介、おねがいします」と結び、そして、深々と頭を下げる。
「うーん、それなら、まずは魔法学校に通って、魔法の勉強したらどうかな? いきなり伯爵にパトロンになってもらおうと言っても実績が必要だと思うよ。それに研究には魔法に関するノウハウが必要かもしれない。君はまだまだ若いんだから、魔法学校でしっかり魔法のお勉強をしたほうが良いと思う。成績が良ければ研究機関へそのまま進めるかもしれないし。コツコツやるのがいいと思うよ」
 相手の貴族は優しく諭すようにそう話した。確かにバニラは一年どころか数十年だって掛かることは覚悟していた。ただ、それは研究を始めてから結果を出すまでの期間だった。
 無言の間を納得したと勘違いしたのか、彼は去っていった。
 魔法学校へ通い、そこで魔法を修めて研究機関へ進む。それにはもちろん時間が必要となる。
 バニラの進もうとする道は、彼女の考えるよりもさらに長い道程のようだった。


◆あの日の推薦状
 伯爵のもと出航前の込み入った仕事の手伝いを終えて帰宅したクラムジー・カープには、まだこの後もやることがある。
 けれど、その前に一息入れようと思った時、ふとこんなことを思い出した──。

 何度も何度も計算し直した紙面は、もう書く隙間もないくらいに真っ黒だ。
 椅子に深くもたれかかり、腕組みして紙面を睨みつける。
 不意に、強張っていた肩から力が抜け、ふぅ、とため息がこぼれた。
「なかなか、無茶を言ってくれる……」
 目の前の紙の横にある『箱船出航方法の変更案』と題された紙を手に取る。
 伯爵が提示する案よりも人々の負担が少なくなるはずで、後はその根拠を示すだけなのだと熱心に説明した友人の顔を思い出した。
 そして彼女は、その重要な箇所の証明をクラムジーに依頼した。
 話を聞いただけで、とてつもなく面倒な計算をしなくてはならないことがすぐにわかった。
 それでも引き受けたのは、他でもない彼女の頼みだったからだ。
 クラムジーから見た彼女は掛け値なしにいい子だ。いい子で、しっかりしていて、まっすくで。
 何より、こんな世界でも希望を信じていて、生きていくための努力とその結果の『未来』を疑わない。
 こんなことを言えば心外だと頬をふくらませるだろうが、誰をどう効果的に使うかまでよく知っている。
(もし、彼女が箱船の本当の目的を知ったなら……)
 まっすぐなあの性格は、どんな反応をするのだろうか。
 怒るだろうか、嘆くだろうか、それとも……生き生きとしたあの瞳から輝きが消えてしまうだろうか。
(それは困る。ここで朽ちられても……それは嫌だ)
 やや強く頭を振ってその嫌な考えを追い払い、クラムジーは新しい紙を出すと再び試算を始めた。

 数日が過ぎた頃、難航を極めた試算がようやくまとまった。
 これをリルダに渡せば、後は彼女が伯爵を説き伏せてくれるだろう。
 まだ気は抜けないが、それでも少しは晴れやかな気分で領主の館の門番に挨拶をして門を抜ける。
 伯爵の執務室の隅に用意されたクラムジー用の机で、今日も各報告書や意見書の整理をする。
 ある意味、民を裏切るような計画を進めておきながら、伯爵の仕事は丁寧だった。
 捨て石にしてもいいと考えているなら、もっと雑でもかまわないはずだ。
 それも表向きの箱船計画を信じ込ませるためのものだというのか。
「ここで生まれる子は、幸せになれると思いますか?」
 唐突にかけられた問いに、クラムジーはすぐに答えることができなかった。
「できれば、健やかに育って幸せになってほしいですね」
 こう言った伯爵を、傲慢だと罵ればいいのか……。けれど、彼が心からそう願っているように見えてならない。
 クラムジーは何と言ったらいいのかわからず、仕事を続ける伯爵をただ見るだけだった。
 その後、彼は伯爵に手渡す書類の中に一通の推薦状をついでのように乗せた。
 ──資質も能力も十分であり、何よりも前向きで諦めない性格が、この任務には適切である。
 残るほうも命がけだが、出て行くほうも命がけだ。
 けれど、彼女なら周りともうまくやってきっと目的を果たすだろう。
 そんな確信と願いをこめて。


◆『いま』をつなぐ
 あと数日で箱船が出航するこの頃、その時に起こるらしい『生命力を出航の力として吸い取られる』という現象に人々は気もそぞろになり、どこか落ち着きがない。
 そんな中でもいつもと同じ時間に起床し、温泉に行く支度を整えるヴァネッサ・バーネット
 部屋を出てアパートの住人達の共有スペースに入ると、たまに顔を見る隣人がのんびりハーブティを飲んでいた。
「温泉に行くの?」
「ああ。あんたは珍しく早起きだね」
「何だか落ち着かなくてね……。あなたはいつもと変わりなしって感じね」
「そうでもないさ。よかったら一緒に行くかい?」
 そうするわ、と彼女は残りのハーブティを飲み干した。

 早めの朝の温泉は二人の貸し切り状態だった。
 並んで手足を伸ばしてゆったりと湯につかっていると、気持ちもほぐれていくように感じる。
「あなたって変わってるわよね」
 唐突に彼女が言った。
 きょとんとするヴァネッサに言葉が続けられる。
「全然洒落っ気なんてないのに、身だしなみだけはきっちり整えているんだもの。いっつも同じ白衣でさ」
「誤解がないように言っておくけど、白衣も毎日洗ってるからな。医者として、身だしなみを整えるのは当然のことなんだよ」
「う~ん、何だかもったいないなぁ。おしゃれしようとか思わないの?」
「患者が不快と思わない格好であることが一番だよ」
 思ったような返事を得られなかった彼女は、不満そうに腕組みした。
 この隣人はアパートの住人達の中でもおしゃれ好きな女性だ。
 たくさんの服は買えないが、その分、小物で印象を変えるなどの工夫をして楽しんでいる。
 ふと、何か思いついたのか彼女はニコニコしながらヴァネッサへ目を向けた。
「じゃあさ、今度髪の毛いじらせてよ。あなたに似合いそうな髪留めがいくつかあるんだ」
「え? えーと……」
「ね? 清潔感が出るようにするから!」
 次の休みの日にやろうね、と一方的に約束させられてしまう。
 そして、きっとそれだけでは終わらないだろうという確信も生まれてしまった。
 その後、彼女は先にあがっていったが、ヴァネッサはまだ湯の中にいた。
 この温泉ができたのは何ヶ月前だったか。
 職業柄、この場所の存在はたいへんありがたく、それ以来日頃から通っているくらいだ。
 いろいろな土地を巡ってきたヴァネッサは、湯浴みできる浴場も水浴びができる場所もないところにいたこともある。そんな時は、温めた布で全身を拭ったものだ。
 どんな環境下でも、必ず髪に櫛を通し爪を整え、身ぎれいにしてきた。
(港町と違って、この温泉は障壁の中に留まれそうだねぇ)
 それなら、この日課も続いていくのだろう。
 患者達の顔を思い出したところで、ヴァネッサは湯からあがった。
 清潔な服を着て白衣を羽織ると、もう医者の顔になっている。
 今日も、これからも、彼女を待つ人の命と『いま』をつないでいく──。


◆ブレスレットに誓う
 今日も地道な努力(魔法学校の授業)を終えたヴォルク・ガムザトハノフは、修行のためクラスメイトの誘いを断りまっすぐ校門を出た。
 お馴染みとなった森へ行こうかなどと考えていると、ついこの前ハンバーグデートをした相手の声に呼び止められた。
「ヴォルク君、授業終わったんですね。これからお時間ありますか?」
 ジスレーヌ・メイユールだ。
「ああ、大丈夫だ。何かあったのか?」
「この前の真砂でのお約束をはたそうと思いまして。よかったら一緒にお茶しませんか?」
 これはもしやデートの誘いか、と思ったヴォルクは軽く今の格好を確認した。
 ごく普通の服装である。狼をモチーフにしたネックレスをしていたりブーツだったりしているが、貴族の館に行くのに問題はないと思われる範囲だ。
 しかし、足りないものがあることを思い出した。しかもそれは下宿先の真砂に置いてある。
「取に行きたいものがあるんだが……」
 と言うと、ジスレーヌは馬車で一緒に行こうと提案した。
 こうしてこの日、真砂の前に貴族の馬車が停まるという非常に珍しい事件が起こったのだった。

 通された庭は色とりどりの花に囲まれた、静かでのどかなところだった。
 その木陰のテーブルにお茶のセットが用意されている。
 カップケーキやタルト、スコーンなどの焼き菓子と紅茶の香りに思わず笑顔になってしまう。
「どうど、召し上がってください」
「あ、その前に」
 ヴォルクは鞄をあけて手を突っ込み、わざわざ真砂まで取りに行った品を取り出す。
 大きさは手のひらに乗るくらい。立派なつくりの箱だった。
「これを君に。なかなかに縁起の良いもの……だと思う」
 ジスレーヌは箱のつくりから中身も相応のものと判断し、受け取ることをためらった。
「そんなに堅く考えないでくれ。実家から持ってきたものの一つなんだ。今後の旅に、俺には不要のものだから、それならジスレーヌに持っていてほしいと思ったんだ」
「そうなの? でも、これはきっと……。ちょっと開けてみますね」
 好奇心に負けたジスレーヌは、そっと箱の蓋を開ける。
 中には銀製のブレスレットが収まっていた。
 派手ではないが、良いつくりの一品だ。
「素敵なブレスレット……。やはり思っていた通り、これはけっこう高価なものではありませんか?」
「どうだろう? そのへんはよくわかんないけど、ヤースヌイを図案化したものだって聞いたな」
「ヤースヌイ?」
「晴れ、という意味だ」
 へぇ、と感心するジスレーヌ。
 まじまじと眺めるブレスレットは、木漏れ日を反射してさらに美しい。
 けれど、それを手に取ろうとはしない。
「……気に入らなかった?」
 少し不安そうなヴォルクに、ジスレーヌは慌てて首を振る。
「そうではありません。ただ、あまりにも綺麗で、私にはもったいないと思って」
「そんなことないと思うが」
 ジスレーヌは真剣にブレスレットを見つめた後、何かを決意した顔で丁寧に箱の蓋を閉じた。
「ヴォルク君、ありがとうございます。大切にしますね」
 嬉しそうに微笑み、大事そうに箱を抱きしめるジスレーヌ。
「それと、ヴォルク君にお約束します。まだまだ私はこのブレスレットの輝きには遠く及びません。ですから、もっともっとお勉強して、ここの人達のお役に立てるようになったら、堂々とこのブレスレットをつけようと思います。その頃にはきっと、釣り合っていると思いますから」
「つまり、ブレスレットは目標ってこと?」
「はいっ。私がこれにふさわしくなった時、ヴォルク君が一緒にいてくれたら嬉しいです」
「よし。俺も日々精進だな」
 ある日の昼下がり。
 少年少女はブレスレットに誓いを立てた──。


◆見納めと思い出
 箱船出航を間近に控えたある日、コタロウ・サンフィールドとベルティルデ・バイエルは町の見納めをと並んで歩いていた。
 足の向くままに歩く二人は、共通する思い出話に花を咲かせる。
「──あの時の姫様の真剣さには胸を打たれたし……緊張もしたんだよね」
「す、すみません……。言い方、きつかったですよね。今もですけれど……」
「ベルティルデちゃんが謝ることはないよ。あのおかげでとても良い船ができたんだから」
「そう言っていただけると気が楽になります」
 今はそうでもないが、当時はルースの言い方のきつさに造船所の作業員とは深い溝があったのだ。
 それを気にしていたベルティルデにとって、コタロウのように言ってくれる人はありがたいかぎりだった。
「もしかしたら、そこからかもしれないな。初体験の連続が始まったのは」
 コタロウは思い出し笑いをする。
「初体験の連続……ですか?」
「うん。まさか、領主の館のお茶会に出席することになるなんて夢にも思わなかったし」
「あ、あの時は……今思い返すと、かなり無茶を言いましたね……」
 貴族と平民との溝を少しでも埋めようとして、貴族のお茶会にコタロウ達を招待しようと提案したのはベルティルデだった。
「恥じ入ることはないよ。あれがうまくいったから今があるんだし」
「コタロウさんは、心が広すぎです」
「そうかな? 普通だと思うけど」
 あの時会話が弾んだ貴族は、箱船の乗組員には選ばれていない。
 それから思い出すのは、ログハウスでのダンスパーティ。
「ステップのスの字も知らない俺に、丁寧に教えてくれてありがとう」
「あの短時間で形にした集中力は、すばらしいと思います。それに、わたくしとも踊ってくださいました。ありがとうございました」
 お世辞などではない素直な表情で褒められ、コタロウは照れくさそうにした。
「集中力は……造船所の先輩達のおかげかもしれない。厳しいけどできるまで指導してくれたから」
「良い先輩に巡り合えたのですね。そういえば、あのミニチュア船はどうなりましたか?」
「うん。前にカードに書いた改良と、それからもう少し。後は、名前かなぁ」
 コタロウは以前に帆船の模型を作ったことがあった。
 それを、たまたま道で会ったベルティルデも見ていたのだ。
「その、船のお名前なんですけど……ラレス・ペルマリニというのはどうですか? 海と海路の守り神です。遠いどこかの国の神様ですけれど」
 コタロウは何回かその神の名を口の中で繰り返すと、にっこりと笑った。
「いいね。縁起が良さそうだ」
 二人は途中に立ち寄ったベルティルデお気に入りのパン屋で軽く食べられるものを買い、座れるところを探して休憩することにした。
 食べながらも思い出すのは、コタロウお手製のフィッシュサンドだ。
「う~ん、他にやり残したことはないかな?」
 得体が知れないと言ってもいい外国人の自分によくしてくれた、気のいいマテオ・テーペの人達に恩返しを──コタロウがいつも考えていることだ。
 ところで、基本的に造船所にこもって仕事に励んでいるコタロウは、外でのできごとや噂話に疎い。そのため、ベルティルデとルースが隠していたことも知らないままだ。
 ベルティルデもまた、あえて自身のことを口にすることはなかった。
 いずれはわかることであるのと、コタロウの態度が変わってしまうのではと恐れたからだ。
「この後は、どこへ行きますか?」
「牧場のほうはどう?」
「では、そうしましょう。最近、子が生まれた農家があると聞きました。もしかしたら、子牛や子馬を見れるかもしれませんよ」
「へぇ。かわいいだろうなぁ」
 二人は他愛ないおしゃべりと笑い声と共に歩き始めるのだった。


◆昼の穏やかな一時
 少女がいつもいる畑が見えてくると、やはり今日もそこでせっせと働いていた。
 イヴェット・クロフォードの接近にはまるで気づいていない。
「ジスレーヌさん」
 少し大きめの声で呼びかけると、しゃがんで一心に雑草取りをしていたジスレーヌ・メイユールの頭がぴょこんと上がった。
 それから声の主の顔を見ると、パッと笑顔になる。
 ジスレーヌは雑草を放り込んでいた籠を抱えて、足早にイヴェットの前にやって来る。
「こんにちは! 出かけてたんですか?」
「ええ。森へフィールドワークに」
「ふぃーるどわーく?」
 聞きなれない言葉に首を傾げるジスレーヌへ、イヴェットは森でしていたことを簡単に説明した。
「学者さんですね!」
「その卵ですけれどね。ところで、もうじきお昼です。休憩にしませんか? お弁当もありますよ」
 フィールドワーク用とは別の鞄を見せると、ジスレーヌは嬉しそうに笑った。
 二人は景色の良いところに移動し、広げた敷物の上で足を伸ばしのんびりとお弁当を食べた。
 イヴェットお手製のサンドイッチに人参のケーキ、それからハーブティだ。
 朝早くから動いていたため、二人はだいぶお腹がすいていた。
「私、森はほとんど入ったことがないんです。植物はこの辺にあるものとは違うんですか?」
「木々で覆われていますからね。環境が違えば育つものも違ってきます。例えば、森でしか採れない薬草や毒草がありますね」
「薬草はいいけど、毒草は……ちょっと怖いです」
「毒草も使い方しだいですよ。それから、伯爵の趣味だという釣りの餌になりそうな虫もいますね」
「そうなの? お父様に持っていったら喜んでくれるでしょうか」
 たぶん驚きのほうが大きいだろう、とイヴェットは思った。
「イヴェットさんの先生はやさしいですか? それとも、すぐガミガミ言う?」
 イヴェットは師匠のことを懐かしみながら思い出を話した。
「いいなぁ。何だか仲良さそうです」
「それはどうかはわかりませんが、ジスレーヌさんは家庭教師とはうまくいっていないのですか?」
「お勉強は……してます。でも、ここでお野菜を育てているほうがずっと楽しいんです」
 子供のうちは机の前でじっとしているのはつまらないかもしれない、とイヴェットは自身が幼い頃の周りの子達を思い出した。
 とはいえ、好きな教科の一つくらいはあるだろうと聞いてみると、
「お星様のお勉強はおもしろいです!」
 と、目を輝かせた。
「天文学ですか……将来はそちらを専門的に学びたいと?」
「いえ、専門的に学びたいのは畑のお仕事のことです。お星様のことは、お母様が好きだったので」
 言って、ジスレーヌは少し寂しそうな目をした。
「お母様は、星座のお話しをたくさん話してくれたんです。人は死んだら星になると言っていて……もしかしたら、お母様も星の一つになっているのかな」
 本気でそう思っているわけではない。慰めだとジスレーヌもわかっている。
「それなら、あなたは空のお母様に会いに行かなければなりませんね」
 ふと、イヴェットの口からこんな言葉がこぼれていた。
 彼女はこれまで、自分を含めて個人の生死にそれほど拘ってこなかった。
 植物や動物がそうであるように、人間も種が維持できればそれで良い。彼女個人としては自身の知識が将来に残れば、生きたと言えると思っていた。
 けれど、いつの間にか生きていてほしい人達ができて、自分も皆とここで生き延びたいと思うようになっていた。
「この後もまた畑に出ますか?」
「はい、そのつもりです。……あの、それが終わったら森へ案内してくれますか? お父様に釣りの餌を差し上げたいのです」
「ええ、いいですよ」
 はたして伯爵はどんな顔をするか。
 イヴェットには想像もつかなかった。


◆わかり合うための一歩
 箱船出航時のための準備は、当然ここに残る人々にも無関係ではない。
 トモシ・ファーロは水の確保などで手伝えることはないかと、各農家を訪ねて回っていた。
 そしてその途中、傷害事件を起こしてしまった青年と対面した。
 ちょうど外の物置から農具を取り出してきたところのようだ。
 ルスタン・チチュキンは、あれから世話になっている農家で手伝いの日々を送っていた。町に顔を出すことはない。
「やぁ、元気そうだね」
「……何か用か?」
「水関係で手伝えることはないかと思って」
「ここは大丈夫だ」
「そっか。これから畑に行くの?」
「ああ。出航時のアレで、しばらく動けないかもしれねぇからな。収穫できるものはしとかねぇと」
「手伝うよ」
「他に回るとこあるんじゃねぇの?」
「まだ時間はあるし、今日で全部を回るのは無理だから」
「……こっちだ」
 トモシが立ち去らないことを察したルスタンは、ジャガイモ畑へと案内した。
 その背を見ながらトモシは安心する。
 ふさぎこんでいるふうでもなく、落ち着いているようだったからだ。
 畑に着いた二人はせっせと手を動かしながら、農業のことをぽつりぽつりと話した。
 その中には、提案のあった就農の件もある。
「俺はやらねぇけど、おじさん達はやるって言ってたな。住むとこが狭くなるのに人は減らねぇんだ。食いモンの作り手増やさねぇと奪い合いが始まるよな」
「そ、その前に分け合うことを考えようよ」
「分け合うほどの量もなくなったらどうすんだ?」
 この話題は終わらせたほうがよさそうだ、とトモシは判断した。
「えーと、実はここを訪ねたのはルスタンくんに謝りたいことがあったからなんだ」
 ルスタンは手を止めて、きょとんとした顔でトモシを見た。
 その顔からトモシは、アンセルが言っていたようにルスタンはもう気にしていないのだとわかった。
 トモシとルスタンは、前に箱船のことで意見を交わしたことがあった。
「覚えてるかな? 前に俺が疑心暗鬼はダメって言ったこと」
 ルスタンはしばらく視線を宙にさまよわせた後、ああ、と思い出したように頷いた。
「あの時、俺はもつれた糸をほどこうして焦って動きました、はい」
 ずっと気になっていたことを、トモシは一気に打ち明けた。
 ルスタンは何が始まったのはわかっていないような顔をしている。
 トモシは続けた。
「今さらかもしれないけど、あの時、訳ありとは思ったけど疑ってたわけじゃないんだよ。君は、門前の喧騒も止めようとしてたし。……方法は違ったかもしれないけど、今でもアンセルさんやみんなのためにやろうとしてたんだろうなって思ってる」
 ボケッと聞いていたルスタンは、やはりトモシの意図がわからなかった。
 その顔に、トモシは苦笑してしまう。彼自身も、ルスタンの立場ならそうだろうなと思うからだ。
 だから、少し照れくさいけれどもっとわかりやすく言うことにした。
「たぶんまだルスタンくんのことわかってないと思うよ、俺。だからね、話したいんだ。いろいろと」
 とたん、ルスタンは顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がった。
「ば、バッカじゃねぇの!? そんなこと言いに来たのかよ、この暇人が! 今は俺のことなんかより出航のための準備だろうが! てめぇもやることあるんだろ、恥ずかしいこと言ってねぇでとっとと行けよ!」
 一気にまくしたてたルスタンは、プイッとそっぽを向いてしまう。
 勢いに気圧されていたトモシは、やがてクスクスと笑い出した。
 どうやらルスタンは照れているようだ。
 トモシは掘り出していたジャガイモを籠に入れると、よいしょ、と立ち上がった。
「聞いてくれてありがとね。そろそろ行くよ」
「……死ぬなよ」
 また来るよ、と言い残してトモシはルスタンと別れた。


◆別れを惜しむ笑い声
 居酒屋兼飯処『真砂』が一時的に閉店になることを、常連客の大半を占める港町の労働者達はとても惜しんだ。
 女将の岩神あづまは、できるだけ早くに再開したいと思っている。
 箱船出航日も迫った頃、あづまは彼らのためにささやかな『お別れ会』を開くことにした。
 その話は人伝にたちまち広まり、当日の客席は早くも埋まってしまった。
「女将さーん、追加頼むー!」
「次こっちもー」
 こんな具合で注文は絶えない。
 あづまも客の期待に応えられるよう、最小限の備蓄を残してあとは今夜全て振る舞うつもりだ。
 あまりの忙しさに、手伝いを申し出る客もいる。
「あらあら、嬉しいですけどお客様にさせるわけにはまいりませんよ」
「いやいや女将さん、実は一度こういうのやってみたかったんですよ」
「あら、そうなの? 意外ですね」
「へへっ、俺、顔が怖いとか言われるから客商売はダメだと思ってたんだけど、今夜の客は知った顔ばっかだからな。遠慮はいらねぇや」
 ふふふ、と笑うあづま。
 別の客からヤジが飛んでくる。
「テメーは愛想もねぇからなぁ」
「女将さん、かまっちゃダメだぜ」
 けれどあづまは少しの間だけ、この強面の青年に料理運びを手伝ってもらうことにした。
「強面だからなんて、諦めてはもったいないですよ。あなた、笑ってごらんなさい。きっと素敵ですよ」
「こ、こうか……?」
 引きつった笑顔に周囲の客が爆笑する。
「威嚇してるようにしか見えねぇ!」
「うるせぇよ! テメーは水でも飲んでろ!」
「あらあら、お客様に怒鳴ってはいけませんよ」
 笑われて羞恥に顔を赤くして大声をあげる青年を、あづまはやんわりと諫める。
 青年はたちまちおとなしくなった。
 店に、また新たな客が来る。噂を聞いてやって来た常連客だ。
「女将さーん、お疲れさんだったなぁ。これ、今日まで楽しませてくれたお礼だ」
 中年の二人連れが差し出したのは、色とりどりの花束。
「そんな、気を遣わなくてもいいのに……」
「ははは、再開してもまたよろしくっつーことで」
「ふふっ。こちらこそ。綺麗な花束ですね、ありがとうございます」
 あづまは二人をテーブルに案内すると、いったん奥に引っ込んでちょうどいい花瓶を探した。
 花瓶は見当たらなかったので代用品を見繕い、花を活ける。それを店のカウンターに置いた。
 客達がだいぶいい感じにできあがってくると、誰からともなく歌い始めた。
 それに手拍子が重なり、いよいよ盛り上がる。
 彼らが心から楽しんでいる姿にあづまも嬉しくなり、笑みを浮かべる。
 そんな彼らは、あづまも宴の輪に入るように誘った。
「女将さんの歌も聞きたいねぇ。何か一つくらい頼むよ~」
「あ、こいつだいぶ酔ってるから、無理しなくていいからな」
 気遣う声もあったが、せっかくだからとあづまは誘いに応じることにした。
「故郷の唄と踊りです。本当ならとても人様にお見せできるようなものではありませんが、皆さんに少しでも楽しんでいただければ幸いです」
 おおっ、と期待のどよめきが起こる中、あづまは客達の前に立つ。
 あづまにとっては懐かしい、客達にとっては不思議な異国の言葉と旋律が店に流れた。
 独特の唄の調子に合わせ、あづまは舞った。
 客達の目には妙に艶っぽく映り、とろけたような顔であづまに見入っている。
 短い唄と舞が終わると、ワッと拍手喝采で店内が震えた。
 この夜、真砂はだいぶ夜更けまで人々の笑い声が続いていた──。


◆たとえば、あの月のように
 人工太陽の射出機は、岩ゴーレムの魔法具を預かるイヴェットの協力を得て、無事にマテオ・テーペの頂上に運ばれた。
 あらかじめ決めておいた場所に設置も終える。
 水路も新住居もできあがったため、今後、岩ゴーレムが使われるような作業の予定はないが、念のためとイヴェットはそうそうに下りて行った。
 礼を言って見送ったエリカ・パハーレの表情は、まだ興奮気味だ。
「やっぱりすごいね、岩ゴーレム! オーマ君もうまく操ってたし」
「エリカはあまり操作しなかったね」
「つい観察のほうに熱が入っちゃって」
 オーマ・ペテテの指摘に、照れたように笑うエリカ。
「魔法具の勉強がますます楽しくなってきたよ」
 とても上機嫌なエリカを、オーマは微笑ましく見ていた。
「あーあ、ここじゃあ魔法鉱石が採れないからね……。早く移住地が見つかるといいな」
 移住地でも魔法鉱石が採掘できるとは限らないが、エリカの中では採掘できることになっているようだ。
 それから二人はすぐに山を下りず、しばらく休んでいくことにした。
 先ほどとは打って変わり、弾む会話もなくただ静かに港町のある方角を眺める。
 この景色を見れるのもこれが最後なのだろうと思うと、自然と口数が減ってしまったのだ。
 どれくらいそうしていただろうか。
 ため息交じりにエリカが言った。
「あの辺、沈んじゃうんだよね……あそこも、向こうも」
 指をさし、寂しそうに呟く。
 その声につられるように、オーマも感傷的になっていった。
 けれど、ふと思い出す。
 残る範囲は、元の計画よりも広いのだと。
 それならば。
「確かに沈んじゃうところは多いけど、全部なくなるわけじゃない。これからは、残るところでどう生きていくかが大事なんじゃないかな」
 感じるままにオーマは言った。
 それを聞いたエリカは少しの間黙っていたが、やがて、そうだねと返した。その声は明るさを取り戻している。
「……うん、なくなるものばかりに心を向けてちゃダメだよね。箱船が行って、それで終わりじゃないんだ。そうだよね」
「うん、そう思う」
 頷いたオーマの脳裏に、以前交わしたレイザとの会話がよみがえる。
「前にレイザに『その実行力を他のことにも生かして、皆に本当の空を見せるための力になってほしい』と言われたんだよね。レイザの希望でもあるんだろうけど、月を打ち上げて満足したのを見透かされたんだと思う」
「そんなことがあったんだ」
 そのレイザは少し前から行方不明になっており、今もまだ見つかっていない。
「きっと、オーマ君に期待したんだよ。こんなところに閉じ込められて、将来に明るいものなんて何も浮かばない時に、月を打ち上げようなんて誰も考えつかなかった。人工月のおかげで、夜は不安なだけのものじゃなくなったんだ」
「ん……もとは、夜番の警備隊の人のためだったんだけどね」
「それでもだよ。障壁が狭くなったら、きっとみんな今まで以上に不安が強くなる。あたしだって怖いよ。本当に、障壁はちゃんと残ってくれるのかなとか、生き残れるかなとか。そんな時に、月みたいにやさしく照らしてくれる何かがあったら嬉しいし、まだがんばれるって勇気がわくと思うんだ」
 オーマはただ頷きを返す。
 エリカが言いたいのは、たとえば海の上の景色を映せる魔法や魔法具の開発などではなく……。
「待つ一年て長いよね。箱船が戻ってくるまで、くじけずにいられるように……。でも、そのために何ができるのかはまださっぱりだから、これからも協力してもらえると嬉しいんだけど、お願いできるかな?」
「君となら喜んで!」
 迷いのない返事と笑顔がオーマに返された。


●出航間近
 火山から帰還の際に無理をしたアウロラ・メルクリアスはまだ、病院のベッドから起き上がれない状態だった。
 自身の能力、限界を超た魔法の発動、魔力増幅装置を連続で使用した後遺症で、アウロラは魔力を失い、体力の回復も非常に遅かった。
「調子はどう?」
 女性の声が響き、アウロラは顔を部屋の入口へと向けた。
「あ、リルダさん。お見舞いに来てくれたんだ」
 反射的に起き上がろうとするものの、身体は動かなかった。
「無理はしないでね」
 と、リルダ・サラインはベッド脇に置かれていた椅子に腰かけた。
「うん、寝たままでごめんね、まだ起き上がるのもつらくって」
 アウロラが弱弱しく笑うと、リルダは心配そうに眼を細め、微笑した。
「頑張りすぎよ」
 そんなリルダの言葉に、いつもならリルダさんだってと答えるところだけれど。
「うん、ちょっと頑張りすぎちゃったかもね。でも頑張ったかいもあって、何とか帰ってこれたよ」
「そうね」
「……全員では、帰ってこれなかったよ」
 何も言わずに、リルダは心配そうにアウロラを見詰めていた。
 アウロラは軽くため息を吐いて、悲しげに語る。
「私ね、洪水でこの町に取り残されてこれからどうなるんだろうってすっごい不安だったの。でもこの町のみんなはすっごくよくしてくれて……。
 その恩返しがしたくて、この地の人の誰にも死んでほしくなくて、火山に行くことにして……」
 声を詰まらせて、アウロラは続けた。
「やっぱり全員で帰ってきたかったな」
 涙ぐむアウロラに手を伸ばして、リルダは彼女の頭を優しく撫でた。
 視線を合わせて、2人は悲しげに微笑み合う。
「明日だね、箱船の出航……」
「そうよ、明日までに元気になって」
 箱船の出航には、マテオ・テーペで生きる人々の生気が必要とのことだ。
「元気になりたいけれど……」
 それは無理な話。でも……。
「きっと大丈夫だよ。火山で生き残ったのにここで死ぬなんてかっこ悪いもん」
 アウロラの元気な返事に、リルダは不安気ながらも、こくりと頷いた。
「……リルダさんはさ、船に乗りたいって、ここを出たいとは思わなかった?」
「え?」
「ほら、リルダさんって町のまとめ役だけどそういう気持ちはあるのかなって、ちょっと気になって」
「そうね、皆と一緒に最後の便で出たいわよ」
 リルダは過去を思い浮かべ、切なげに視線を落とした。
「私ね、避難船出航時に、アルザラ家の――航海士の母娘を引き裂いてしまってるの」
 アルザラ家は、漁業組合、組合会長の一家で、港町の住民をまとめていた家だ。
「大型船の航海士が足りないって、娘の方だけに話して、別の船にいざなってしまった」
 だから、彼女たちの命を諦めない。ここに残った人たちの命も諦めない。
 いつか大切な人と再会が出来るよう、ここに残った最後のアルザラ家の血を引くものとして、尽くすのみだと。
 そう、リルダはアウロラに語った。
 アルザラ港はクルーズ船が寄港したり、貨物船の行き来はあるものの、さほど大きくはない漁港だった。
 漁師の数は多いものの、長距離を渡航できる航海術に優れた航海士はあまりいなかったのだ。
「……ねえ、航海士が足りないって……。箱船の航海士は?」
 ふと気づいて、アウロラがそう尋ねると、リルダははっとした顔になり、2人は顔を合わせたまま少しの間沈黙した。
「ええっと……あ、あの船は、特殊な船だから! うん」
「前途多難すぎるよ……」
「とにかく、今は生き残ることを考えましょう! 私たちも遠くない未来、船に乗ってここから出るのよ」
 だから今はゆっくり休んで。
 アウロラを気遣うとても優しい声に、アウロラはこくりと頷いて、目を閉じた。


●月夜
 人工月が浮かんで直ぐの、夜が始まったばかりの時間に、イリス・リーネルトはリック・ソリアーノと共に約束していた夜のピクニックへと出発した。
 まずは、障壁が狭まったらもう行けなくなる場所――港町を、2人は一緒に歩いた。
 ギリギリまでここで暮らしたいと思っている人は少なくないようで、家々からは仄かな明かりが漏れていた。
 度重なる自身で崩れてしまった家はそのままの状態で、寂しさと、若干の恐怖を感じる。
「キモダメシを思い出して、ちょっと怖いけど……でも、ドキドキはそれだけじゃないのかな」
「うん、僕もキモダメシの時とは違うドキドキを感じてるよ」
 見れなくなってしまう町を、景色をもっと見渡せる場所に行こうと、2人は高台へと歩いていく。

「洪水の前はね、春はここでお花見が出来たんだよ。秋は紅葉がとても綺麗だった」
 どちらにしても、夜は色をあまり楽しめないけれどね。と、イリスは微笑んだ。
「イリス、足下注意してね。崖から離れた場所にしようか」
「うん、このあたりがいいかな」
 イリスは持ってきたシートを敷いて、リックと一緒にシートの上に座った。
 それから、リュックの中から団子と水筒を取り出して、カップにお茶を注ぎリックに渡す。
「どうぞ。お団子も食べてね」
「ありがとう。僕は食べ物は持ってきてないんだけど」
 リックは鞄の中からひざ掛けを取り出して、イリスの足にかけた。
「ありがとう、リック」
 2人は、団子を食べ、お茶で温まりながら、夜の景色を眺めた。
 人工月の淡い光に照らされた木々と世界は、幻想的で神秘的で、どこか遠くの、もしくは夢の中にある違う世界のようだった。
 イリスとリックは、初めて2人で観るこの景色をそれぞれ心に刻みつける。
(この世界――この景色、もうすぐなくなっちゃう)
 寂しくなってしまい、イリスはリックの手に手を伸ばして、握りしめた。
 リックもすぐに握り返し、寂しげに目を細めて微笑む。
 リックの笑顔と温もりで、イリスの心から寂しさがすっと消えていく。
「ねえリック」
 彼の手を握りしめたまま、イリスはじっとリックを見詰めた。
「もっと恋人らしいことしてみたけど、どうしたらいいのかな……」
 知ってる? と、イリスが首を傾げて尋ねると、リックは慌てた様子で目を泳がせて。
「そ、そうだ。もう一つ持ってきたものがあるんだ」
 そう言って取り出したのは、長いマフラーだった。
「イリスじっとしててね」
 リックはマフラーを丁寧にイリスの首に巻き、自分の首にも巻いた。
 そう、1つのマフラーを2人の首に巻き付けた。自然に二人の距離が近づき、腕と腕が触れ合っていた。
「リック……」
 イリスはリックの腕に、自分の腕を絡めて、彼を見つめる。
 人工月に照らされたその顔は、淡く赤くなっていて、可愛らしくて……。
 吸い込まれるように、リックは彼女の唇に、自分の唇を重ねていた。
「あ、ごめん……っ」
 照れて離れたリックに、同じマフラーをしていたイリスは引っ張られて、体勢を崩してリックに抱き着いてしまう。
「謝る事なんて、ないよ。もっと、リックとこんなふうに過ごしたい」
 抱き着いたまま、そう言うと、リックがそっとイリスの身体に手を回して、優しく抱きしめてきた。
「僕も。景色は失っても、イリスと一緒に過ごす時間は失いたくないんだ」
「うん……箱船出航の時、一緒にいてくれる? きっと、大丈夫だよね」
 顔を上げて、不安げな目をイリスはリックに向けた。
「大丈夫、絶対大丈夫。一緒にいるよ」
 頬を寄せて抱きしめ合った。
 互いに、心から願う。お互いが無事であることを。
 こうして、同じ時をこれからも過ごしていきたいと。
 暖かな温もりを、息をずっと、感じていたい。


●お墓参り
 箱船出航が近づいたある日。
「アーリー、墓参りにいかないか?」
 部屋で静かに過ごしていたアーリー・オサードに、ウィリアムはそう提案した。
「アーリーの店は海の底だろうが、墓は別の場所にあるんだろ? 気持ちの整理にもなるかもしれないしな」
 合わす顔がないとでもいうような、微妙な顔のアーリーに、ウィリアムは笑みを向けてせがむように言う。
「なぁ、アーリー姉ちゃん行こうぜ」
 途端、アーリーは軽く吹き出して笑った。
「仕方ないわね、連れて行ってあげる」
 笑顔で答えて、ウィリアムと共に、アーリーは両親が眠る墓地へと向かったのだった。

 彼女の肉親の墓は、他の町の人たちと同じように、墓地に並んでいた。
 花を手向けると、目を閉じて2人はそれぞれ心の中で故人に語りかけた。
 孤児だったウィリアムは、血のつながりのある家族というものを知らない。
 だから、家族というものに憧れもあり、美化もしていたと思う。
 挨拶くらいはしておいた方が良い、そう思って来たのだけれど……。
 アーリーはどうだろうか?
 目を向けると、目を開いた彼女の表情は、暗かった。
「アーリーはどんな別れの挨拶したんだ?」
「え?」
「俺は、あれだ。無事に連れて帰るとは言った」
「……そう」
 しばらく、墓石を眺めたまま、アーリーは沈黙していた。
 ウィリアムはだたそっと、アーリーに寄り添っていた。彼女の心の整理がつくまで、待っていようと。
「さよならって。もう来れないって伝えたわ」
 アーリーがぽつりと、言葉を口に出した。
「1年後、生きて、帰ってくるだろ?」
 優しいウィリアムの声に、アーリーは首を左右に振る。
「帰らない。地上に行き、私たちは船を降りるのよ。特にあなた、航海に役立つ技術持ってないじゃない? ここに戻るのは、必要最低限の人だけでいい」
「そうか……。島、見つかるといいな。帝国築くんだったか?」
「島なんて残っていない、でも私たちが下りる大地がある……あなたには、そのうち話すわね」
 彼女の気持ち、言葉の意味は相変わらず良く分からない。
 だけれど、彼女に死ぬ意思はなさそうだということに安堵して、今はまだ解らなくてもいいかと、ウィリアムは思う。
「あいつ等には挨拶しとくか?」
 アジトとしていた方向に、ウィリアムは目を向けた。それだけで、アーリーも理解する。
 2人は歩いて、その場所へと向かった。
 彼等が、身を投げた――と思われる場所の側まで歩き、摘んだ野の花を投げた。
(あいつ等が、無事に済まない予感も無くは無かった……)
 ウィリアムは彼らから離れた後、ひとり騎士団に自首し、拘束された。
(俺も、あいつ等を見殺しにした1人、だ)
 目を伏せて、彼らの姿を思い浮かべる。
「ワビにはならんのは解ってはいるが、せめて、憶えといてやんなきゃな。……クダンには命を救われてる訳だしな」
 傍にいるアーリーに顔を向けると、彼女はこくりと頷いた。
「とも思うわけで、正直な処、この気持ちにケリをつけたかった。船で出ていく以上、すっきりしときてーが、石で墓でもってガラじゃねーしなぁ」
「きっといらないわよ。彼等もここにはもういたくないはず。自由になって大切な人のところに、帰りたかったはず、だから」
 アーリーの言葉にウィリアムは頷いて。
「ただ、忘れないでいよう。あいつらの分まで俺等も生きて、次に繋いで償うぐらいしかな」
 彼の言葉を、決意を、アーリーは黙って聞いていた。
「罪悪感に押しつぶされて、逃げるよりははるかにマシだろうよ。あいつ等に胸張れるような生き方しねーとな」
 そして、ウィリアムはアーリーに手を伸ばした。
「帰ろうか」
「ええ」
 彼の手を取って握りしめて――2人は一緒に歩き出した。


●思いを馳せながら
 エイディン・バルドバルは、箱船の乗組員募集に、応募をしなかった。
 もうすぐ、船は出航する。未練がない、わけではない。
 早く海の上へ、世界の状態を知りたい、一刻も早く妹弟の安否を知りたかった。
 だけれど、ここ、障壁内には助けを必要としているものが、まだまだ沢山いる。
 そんな中で、乗船を希望する気にはなれなかった。
 その決断に後悔はない。後悔はないものの……。
「造船はひと段落し、復興作業もやがては落ち着くだろう。この先、どう生きるべきか」
 思案しながら、エイディンは懐から手紙を取り出す。
 妹弟達からの手紙だ。学のない兄――エイディン宛ての、わかりやすい言葉で書かれたもの。
 それでも、全ての文字を拾い上げられるわけではなく。だが、他人に読んでもらうのではなく、いつしかこれを全て自分で読む。そう思っていた。
「次の造船が始まるまでの、今がその時、ではないか」
 そう呟き、エイディンは大切に手紙を懐にしまった。

 障壁内に一般教養を学ぶ場はないのだが、一か所だけ学校は存在している。
 以前、パトロールさせてもらった縁のある、魔法学校だ。
 かつてこの魔法学校には普通教育を受けられる一般科もあったらしいのだが、世界が海に沈んだことで、魔術師の育成が急務となり、専門科だけになったとのことだ。
「人足としてでも、用務員としてでも雇い入れてもらえないか? その代わりここで学ばせてもらえないか」
 校長に面会を求め、エイディンはそう頼みこんだ。
「仕事を手伝ってくれるのはありがたいが、今は普通教育は行われていないんだ」
「授業はなくとも、教材はあるのだろう? ならば、仕事の合間に自習をさせてもらいたい。教材を使わせてもらえないだろうか」
「それならば……魔法学校の図書室は、元々自由に利用できるんだ。図書室にある本の他に、一般科で使われていた教材を貸しだすくらいならできるよ」
 エイディンの願いに、校長はそう応えてくれた。

 その日から、次の造船が始まるまでの間、エイディンは魔法学校に通うことになった。
「こんなのも読めないのー? 僕が教えてあげるよ!」
「あ、私これ分かるー。これはね、こういう意味なんだよ!」
 いつしか、パトロールの時に知り合った子供たちが集まってきて、小さな教師となり、エイディンに文字を教えてくれるようになった。
 小さな教師たちに感謝し、彼等を守りながら、エイディンは学んでいくのだった。


●あなたと居る幸せ(前篇)
 造船所の食堂で働く、カヤナ・ケイリーが休みの日、クロイツ・シンは彼女を造船所の宿舎に迎えに来ていた。
「なんか、周囲に見られてるような……」
 造船所で働く者たちが、2人を見て何やら話をしている。
「ふふ、行ってきまーす! 遅くならないうちに帰るから」
 カヤナはそう言って、造船所の人達に手を振ると、クロイツに腕を絡めてきた。

 家に招き、彼女を椅子に座らせると、クロイツは準備を始めた。
 弟たちは買い出しに叩きだしており、家にはクロイツとカヤナの2人きりだった。
「ね、何ご馳走してくれるの?」
「この間話した、アウフラウフ」
「手伝おうか?」
 カヤナの申し出に、クロイツは首を軽く左右に振った。
「カヤナはいつも誰かの為に作ってるから、カヤナの為に作りたくてな」
「それじゃ、よく見て覚えさせてもらうわ。シン家の家庭料理」
 カヤナが眺める中、クロイツはてきぱきと料理を進めていく。
 ホワイトソースを作り、野菜とパスタを下茹ですると、野菜を手ごろな大きさに切る。
 用意したバターを塗った皿に、パスタと野菜を並べ入れ、ホワイトソースを注ぎチーズを乗せてオーブンへ。
 焼いている間に、甘さ控え目、さっぱり系に蜂蜜紅茶で林檎のコンポートを作った。
「うーん、いい匂いがしてきた。料理って、自分で作るより作ってもらった方が美味しいのよね。あ、私が料理下手だって意味じゃないわよ」
「わかってる。カヤナ、料理上手いし」
 話をしながら作っていると、早く時間が過ぎていき、アウフラウフはあっという間に焼き上がり、食卓に並べられた。
「有体に言っちまうと、アウフラウフはグラタンだな」
 クロイツはカヤナの向かいに腰かけて、2人は一緒に食べ始める。
「父親と弟共は人参嫌いだったが、これなら食べるから」
「お父さんまで人参嫌いだったんだ」
 くすっとカヤナが笑う。
「うん、とっても美味しいわ。暖かい味がする」
「そうか、ありがとう」
 クロイツが食べ終えた後も、カヤナは美味しそうにアウフラウフを残さず綺麗に食べていく。
(やっぱ綺麗に食べるよな)
 食べる姿も、ガツガツ食べる自分達兄弟とは明らかに違い、食べ終えた後の皿の状態、スプーンの置き方さえも違った。
「さて、お楽しみのこっちもいただこうかしら」
 コンポートに手を伸ばしたカヤナにクロイツは笑みを向ける。
「あーんしてやろうか?」
「……えっ、本気? からかってる?」
 カヤナは驚きの目を向けてきた。
「本気だが?」
 と、クロイツはフォークで、林檎をとるとカヤナの口に向けた。
「意外なんだけどー。ま、そういうところが、面白いんだけどね」
 言ってカヤナは口を開き、クロイツは嬉しそうに彼女の口に、林檎を運んだ。
「好きな女に、自分が作った料理あーんしてみたかったんだよな」
 口を閉じて味わって「美味しい!」と、ほのかに赤くなり言った彼女を、クロイツはとても嬉しそうに眺める。
「子供みたいな顔してるわよ」
「しかも可愛いんだから嬉しいに決まってんだろ」
「だから、可愛い女じゃないでしょ、私は」
 可愛げがない女だと、どちらかと言えば自分は美人系だと思うと、彼女は冗談でクロイツに返したことがあった。
「ああ、美人ってのは思ってるぜ。花束渡す時照れたし」
「いや、えっと……」
「けど、俺は惚れたから、全部が可愛く見える。惚れた弱みって奴」
 ニコニコと眺めつづけながら言うと、カヤナの顔に嬉し、恥ずかしげな笑みが浮かぶ。
「う~ん、ありがと……うれしい。次は、私にもやらせてね。私の料理、あなたの口に運んであげる」
 クロイツは「ああ」と首を縦に振った。
 それもきっと、とても嬉しく楽しいだろう。


●望む未来に
 火山が鎮静して1カ月以上が過ぎたが、警備隊隊長のバート・カスタルは未だ、自力で歩くことも難しい状態だった。
「隊長、報告に来ました」
 そんな彼のもとに、警備隊員のナイト・ゲイルが状況の報告に訪れた。
 報告をするも、答えるバートの顔には、元気がなく、どことなく上の空だった。
「レイザがいなくなり、落ち込んでるんですか? レイザは守ろうと思うものを守った。あいつがその後どうなったかは分からないけれど、今すぐ姿を現すことはできないようです」
 ならば、自分は、自分が守ろうと思うものを、これからも守り続けようと。
 自分がそれを出来る限り。
「あいつが現れた時に何もなかったら格好悪いですから」
 強い目で、ナイトはバートを見る。バートは? と問いかけるように。
「お前はいいよな、疲れ知らずで」
 バートが微笑する。動くことができないために、弱気になっているようにも見えた。
「俺だって、あの後寝込みましたよ、生身の人間だから。隊長も適当に休んで動けるようになったら現場に復帰してください。人手全然足りないんですから」
「ははは……俺さ、現場に復帰できないかもしれない。魔力が戻らないんだ。魔法が使えなければ、騎士を続けることなんて……」
 そんな弱気な言葉に、ナイトは怒りさえ覚える。
「それ、18年近く魔力からっきしで生きてきた、俺に言える台詞ですか! 魔法使えなきゃ、騎士失格だとでも!?」
「あ、ああそうだったな。悪い。考えも上手くまとまらないんだよ。これはガスの後遺症らしい」
 魔力がなくても、力があれば。体力がなくても魔法が使えれば。両方無くても知恵があれば、騎士として皆を守る力となれる。
 だけれど、その全てを思うように発揮できなくなり、バートは落ち込んでいるようだった。
「レイザの事は友として誇りに思っている。ただ、奴が最後まで一緒にと思っていた人を諦めるのなら、同じ意志を持つ者として、俺が一緒に行くべきだったんじゃないかと……」
「何馬鹿なこと言ってんですか! 大体あの時、隊長が戻らなかったら、火山に行ったメンバー全滅してたでしょう!?」
「怒んなよ、優しく慰めろよバカ部下が」
 ふて腐れたように言うバートにナイトは苦笑する。
 それはきっと自分の役目ではないだろう。
「とにかく早く復帰してください。……それと俺、魔法を学ぶことにしました」
「でもお前、魔力を全く感じることできないんだよな?」
「いや、なんか火を身近に感じるようになっんで……ひょっとしたらって思って」
 神殿で生命力の提供を行った後、ナイトは不思議な感覚を受けることがあった。
 火の力が――レイザが居るような、奇妙な感覚。
「使えるようになったら便利かな~と……火っていうのに何か縁を感じるんで」
「そうか……頑張れよ」
 そう、バートは微笑した。
 ナイトが火の魔法を操れるようになったら、この僅かな笑顔が、強い笑みに変わりそうな、そんな気がした。
「それじゃ、失礼します」

 現実は非常だという者がいる。
 だが、現実に情なんてあるわけない。
 ただ起きる事を起こしているだけだ。
 情を求めるのは自分たちの身勝手さだ、甘えとも言う。
「そんな事求める前に動け、その結果少しだけ自分の望む未来に現実が傾く。それを積み重ねていくんだ」
 ナイトはこれからの平和を求めるから、その為に動き続ける。
 自分が事件が起きたその場にいなくて何もできなかったら、今まで何のために足掻いたのか分からない。
「だから俺は今までと同じく動く、あの出来事は俺にとって通過点でしかない」
 館を振り返り、火山の方向を軽く見てから、ナイトは身を翻し自分の日常を歩いていく。


●再会
 箱船出航が近づいたある日。貴族のマーガレット・ヘイルシャムは、バート・カスタルの見舞いに訪れていた。
 戻ってきてくれただけでも良かった。だけれど、やっぱり早く元気になってもらいたい。
 医師の話では、彼はまだリハビリが出来るまで回復してはいないとのことだった。
 完全に回復することは難しいとも、聞いている。それは本人も知っているそうだ。
「君にも随分と無理をさせてしまって、すまない」
「いえ、自分の事は良く分かっていますから、大丈夫ですよ」
「そうか、良かった」
 彼の弱い微笑みに、微笑み返してから、マーガレットは尋ねる。
「なにを考えてます? レイザさんのことですか?」
 心の中を見透かすような視線を受けて、バートは僅かに目を彷徨わせた。
「あなたは真面目すぎるんです」
「そうかな……」
「まぁ、そこが良いところですけれど、度が過ぎると欠点にもなるんですよ」
 苦笑するバートに、マーガレットは優しく言葉をかけていく。
「人は全能の存在ではなくて、出来ることには限りがあります」
 生還し難い状況で、バートを含めて皆出来る限りのことをし、その結果が今に繋がっているのだと。
 レイザがいないのは残念だけれど、他の人達は誰一人欠けることなく戻ることができて、ウィリアムとアーリーは功績が認められて、自由を得ることが出来たと。
 そして、火山に向かった者の多くは、箱船に乗ることになり、出航の準備を進めているのだと、話していく。
「それな……その殆ど全部が、レイザの根回しなんだよ」
 バートはゆっくりと、マーガレットに話す。
 これまで誰にも話さず、内に秘めていたことを。
 火山の作戦は、決して成功ではない。
 マテオ・テーペの人々全体でいうならば、火山の作戦がより迅速に――レイザがその身でより早く鎮めていたら、地震はもっと早い段階で治まり、死傷者はもっと少なかっただろう。
 バートが一般の作戦参加者ならば、仲間が全員帰還できてよかったで終わらせられるが、バートは騎士である。この作戦の詳細が公になったのなら、責任を追及されてもおかしくはないのだが……。
「どんな結果に終わっても、俺や作戦に参加した者たちに責任が及ばないよう、そして戻ってからの治療体制も全て、手配していきやがった」
「そういったことも含めて、彼は彼のできることを、そしてバートはバートの出来ることをしたのでしょう? 共に向かった人たちも、それぞれ全力で」
「……神殿でサポートしてくれた人達も、マーガレットも」
 彼の言葉に、マーガレットは愛しみを込めた笑みを浮かべて、微笑む。
「サーナちゃんは正式に神殿に復帰できましたよ。あの子の騎士は直属の親衛隊員に……多分近いうちに結婚するのではないでしょうか。両方と親しいバートは、その日までには元気になる義務がありますね」
「結婚……? いや、ラトはともかく、サーナちゃんはまだ子供だし」
「あなたが子守をした幼い少女も、大人の女性へと成長しつつあるのです」
 そして、とマーガレットは言葉を続ける。
「私もまだ生きています。弟さんに会ったら、あなたのことを伝えるという約束はちょっと先送りになりそうですけど……」
「箱船の乗組員に、応募しなかったんだな?」
 バートの問いに、マーガレットはこくりと頷く。
 自分はもう少し先だと。まだ、観たいもの、記録に残したいものがこの小さな世界にあるから。
「少し喋りすぎましたね。休んでください。……でも、最後にこれだけは言わせてください」
 マーガレットは横になったままの彼を目を細めて見つめた。
「あなたとまた会えて嬉しいです、バート」
 バートの顔にも、優しい笑みが浮かんでいく。
「俺も君にまた会えて嬉しいよ、マーガレット」


●旅立ち
 新たな居住区に移り住んだばかりの頃。
「おじさんは貴族に仕えてたりしたんだろ? うるさい姫さん……いやもう姫じゃないんだけどうるさいのがいるから色々と教えてもらってびっくりさせてやるんだ」
 マティアス・ リングホルムはそういって、共に暮らしている友人の父に、礼儀作法や、社交の知識を教えてくれるよう頼んだ。
「せめてダンスで、上手なステップが踏めるようになりたい」
 マティアスのそんな頼みを、友人の父は引き受けると言ってはくれたものの、最初から厳しいダメだしをしてきた。
 まず、貴人に対して、うるさい姫さんだとか、うるさいの扱いしているその姿勢がなっていないと。
「どんなに取り繕っても、態度に出てしまうぞ」
「そ、そうか」
 前途多難だなーと、マティアスはため息をつく。
 きちんと真面目に学校を出ていたらよかったなと今は思うのだけれど、こんな事態に陥る前は、そんなこと微塵も思うことはなかった。
 この経験と、ここでの暮らしが、自分を変えたのだとマティアスは思う。
「とにかく頼む。真面目にやるからさ!」
 箱船出航まであまり時間はない。
 日中は普通に準備に勤しみ、夜。密かにマティアスは友人の父に、基本中の基本の立ち振る舞い、女性のエスコート、そしてダンスを習っていくのだった。

「少しは様になってきたな」
 ステップを踏むマティアスの姿に、友人の父が厳しい顔のまま頷く。
「そろそろ休憩にしましょ。温かいお茶を淹れたわよ」
 友人の母が温かなお茶をテーブルに並べてくれた。
「ふう、貴族のやつら、優雅に踊ってやがるが、かなり体力つかうよな、これ」
 汗をぬぐいながら、マティアスは椅子に座る。
 食事は済んでいたが、友人の両親も椅子に腰かけて3人でテーブルを囲んだ。
「出航、明日でしょ。今日は早く休みなさい」
 友人の母が、優しく……少し寂しげな笑みを向けてきた。
 父も、母も、本当の子供の様に、そう友人が受けるはずの愛情を、マティアスに向けてくれていた。
(本当は、おじさんたちも船に乗って、一緒にあいつを探したかった)
 だけれど、船の目的を考えると――友人の父はともかく、母は凄く辛いだろう。
(だからどうかここで、まだここの方がきっと2人とも生きられるって……俺は、思っているから)
 マティアスが目を伏せると「どうしたの?」と、友人の母が優しく声をかけてきた。
 ふと、マティアスの脳裏に優しく微笑む友の姿が思い浮かび、胸がきゅっと苦しくなった。
「俺があいつを絶対に連れて帰ってくるから」
 自分を見る2人を交互に見つめて、マティアスは強い意思を込めてはっきりと言った。
「どうかまっていて欲しい」
「……孫の顔を見るまで死ぬ気はない」
 仏頂面で、父は答え。
「あなたも私達の息子よ。一緒に帰ってきてね」
 切なげに、涙を浮かべて母はそう言った。
 マティアスの目頭も熱くなる。
 親の顔なんて、知らないけれど――。
(俺にも家族が、出来たんだ)
 胸が凄く熱くなり、言葉が出せなかった。

 友と共に、必ず帰る。
 決意を胸に、マティアスは家族のもとから旅立つのだった。


●あなたがいる限り
「障壁が狭まる前に色々見て回らないか? ピクニックがてら」
 そんなラトヴィッジ・オールウィンの誘いに、サーナ・シフレアンは二つ返事でOKして、2人は散策に出かけた。
 彼女はこれまで、障壁内を歩く機会なんて全くなかったはずだから。
 まずは港町に行こうとラトヴィッジはサーナと手を繋ぎ、少し照れくさそうな笑みを浮かべて歩き出す。
 彼女のペースに合わせて港町まで歩き、人の姿があまりなくなった町をゆっくりと回る。
 人々の生活拠点は、新たな居住区に移っていた。
「ここのランチがボリュームがあって凄く美味くてさ、良く利用してたんだ」
 ここには雑貨屋があり、ここの市場はいつも賑わっていて……と、ラトヴィッジはサーナに過去の事、最近のことをも話していった。
「昔はよく、私も町に連れてきてもらったの。懐かしいな」
 と、サーナは目を細めて思いを馳せる。
「全部見渡せる場所に行こうか。展望台はもう沈んでしまったけれど」
 あの時、洪水の時に多くの人が避難した高台はまだ沈んではいなかった。
 長い石段や、舗装されていない道を休み休み登って、2人は港町と池が見渡せる場所へとたどり着く。
 ここからはマテオ・テーペや神殿も見えた。
「流石に少し疲れただろ? 少し遅くなったけど、お昼にしよう」
「うん」
 ラトヴィッジがリュックの中から取出したシートを、サーナが広げて敷いた。
 その上に、ラトヴィッジは弁当を広げていき、サーナは水筒からコップに紅茶を注いだ。
 そして2人は並んで腰かけて、同じ方向を見ながらお弁当を食べていく。
「ここから見る景色をサーナと見ておきたかったんだ」
 人工太陽に照らされた小さな世界が、静かに穏やかに在った。
「……サーナは覚えてるか? ここじゃないけど、サーナとまだ出会って間もない頃だ。あの時も見晴らしの良い場所で二人で花と景色を見た」
「もちろん」
「そして、シロツメクサで作った指輪をサーナに贈った」
「凄く、大切な思い出」
 サーナは自分の指に、視線を落とした。
 花の指輪の寿命は短く、彼女の指には今は何もない。
「……サーナ、目を閉じてくれるか?」
 え? と不思議そうな顔でラトヴィッジを見詰めたあと、サーナはそっと目を閉じた。
 ラトヴィッジはサーナの細くて華奢な左手をとって、ポケットの中に忍ばせていたもの――指輪を、彼女の指に嵌めた。
「目、開けていいぞ」
 サーナは目を開けて、左手の薬指のリングを見た。綺麗で固くて、長く存在していてくれるもの。
「……本当に気が早いと思うけど……」
 早くない、というようにサーナは右手で大切に自分の左手を包み込み、首を横に振った。
「これからサーナはもっと綺麗になって、注目を浴びるだろうから……どうしても主張しておきたくて……俺の、だって」
 ラトヴィッジは彼女の頬に手を伸ばした。
 2人の視線が絡み合い、ラトヴィッジはサーナにもう一度、目を閉じてとお願いをした。
 そっと、瞼を閉じた彼女に、顔を近づけて。
 その赤くて小さな唇に、自らの唇を重ねた。
「狼の意味はさ……俺も男だから、サーナにこういう事をしてしまうって意味」
 唇を離して、愛しげに微笑みかけると、サーナは瞳を潤ませて、切なげにそれでいて嬉しそうに――微笑んで、ラトヴィッジに抱き着き、彼の胸に頬を埋めた。
「大好きだから。ラトが狼になったら……私。きっと、もっと好きになるわ」
「ありがとう」
 ラトヴィッジは強く、大切な女性を抱きしめる。
 神殿で大切な役目を担う彼女は、きっと最後の最後まで、この地に残るだろう。
 いついかなる時も、どんな状況に陥ってもずっと彼女の傍で、彼女の騎士として、パートナーとして、心も体も守り続けるとラトヴィッジは胸に誓う。


●挨拶
「父上、母上、ロスティンただいま帰りました」
 火山から戻り体調が回復した頃、ロスティン・マイカンは使者を通して予め両親に予定を伝え、貴族らしい装いに身なりを整えると両親のもとへと帰宅をした。
「少し前に魔力の暴走で被害が出ている所もあったようですがこちらは大丈夫ですか?」
 帰ることを話してあったためか、両親は2人そろって待っていてくれた……というより、現状では2人とも特に役目というものがなく、自宅で過ごしていることが多いようだった。
 地震により多少影響はあったものの、2人が暮らす部屋は無事だったようだ。
「私の方は少々体調を崩したりはしていましたが何とか元に戻りました」
 ロスティンの帰還を2人共喜んではくれた。ただ、普段と違う彼の様子を訝しんでいるようでもあった。
「今回折り入ってお話したいことがあります」
 ロスティンは2人の前に座ると、火山に行ったこと、そして箱船の乗組員として採用されたことを報告をする。
 両親たちはとても驚き、信じられないといった表情だった。
「実は私には今、大切に想っている女性がいます」
 そして、ロスティンはミーザ・ルマンダとの出会いと、彼女に惹かれたという話を両親にしていく。
 彼女は領主の館でメイドとして働いているが、他国の良い家の血を引いているということ。
 明るくて一生懸命な良い娘だけれど、洪水で家族と離ればなれになり、悲しんでいるということ。 
 体力もあり魔術の才能にも恵まれた働き者であるということなどを、語った。
「それで、私としては彼女と箱船に乗り地上を、生き残った彼女の親族を探し、その後求婚をしたいと思っています」
「お待ちなさい、何をおっしゃっているのですか、ロスティンさん」
 ただただ驚きの表情で聞いていた両親――母親が厳しい声をあげた。
「箱船の乗組員としての採用は、誇らしい事です。ですが、何故メイドなのです? 相応の相応しい娘を娶ることは貴族の責務ではありませんか?」
「遊びや、愛人ならばわかるが、求婚となると話は別だ」
 重々しい口調で言う父を、母がギッと睨みつける。
「ここでは貴族であることに、大きな意味はありません。私は1人の男として、彼女を妻にしたいと思いました」
 唖然としている両親に、ロスティンは苛立ちを隠しつつ、穏やかに話す。
「それからは悲しむ人が少しでも減るよう、人々のために自分のできることを探して行きたいと思います」
 彼女はきっと、そんな自分を支えてくれるはずだし、自分も彼女を支えていきたい、と。
 そんなロスティンの突然の言葉に、母は呆れた表情になり、父は諦めのため息を吐いた。
「勝手にしろ。お前は気付いていないだろうが、お前の尻はこれまで私達が拭ってきた。箱船に乗ってからは全て自己責任だと思え」
「ですが、そんな卑しい娘をこの家に迎え入れることはできませんよ」
「……お世話になりました。行ってきます」
 ロスティンが頭を下げると、父親はちらりとだけ彼を見て「無事、戻ってこい」と声をかけてきた。
「心身ともに一回り大きくなり、1人で、もしくは相応しい方と戻られることを心待ちにしていますわ」
 母はそうロスティンに告げた。
 ロスティンの旅立ちに関しては、両親ともに好意的だった。
 だけれど、ミーザへの求婚は認めない姿勢だった。
(これまでがこれまでだったもんな。時間をかけて認めさせないと……)
 そう、地上に出れたのなら、何かで大活躍をして結婚無理矢理にでも了承させるぞ。
 そんな決意を胸に、ロスティンは両親たちのもとを後にした。

 

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