『思い出エピソード』

冷泉みのり

 

 ◆あの日の陽射しは
 その日もメリッサ・ガードナーはマテオ・テーペを拝んだ後に神殿に立ち寄り、休憩に出てきた水の魔術師達に回復の魔法をかけていた。
 元気になって礼を言って奥の間に戻っていく魔術師と入れ替わりに、神殿長のナディア・タスカが出てくる。眠そうに見えるのは疲れているからだろう。
 しかし彼女は、メリッサに気が付くとふんわりと微笑んだ。
「こんにちは。今日もマテオ・テーペを眺めに? かわいいメリッサさんに見つめられて、山もきっと喜んでいますね」
「そうだといいんだけど。……あのね、その憧れの山ともっとお近づきになりたいんだけど、相談に乗ってくれる?」
「ええ、私でよければ」
 メリッサはナディアにも回復の魔法をかけながら、さっそく聞いた。
「伯爵さんと親しい人、知らない?」
「あら、本人じゃないのですね……」
 ナディアは少し残念そうにした後、騎士団長の名前を挙げた。
「伯爵の信頼が厚い人ですから、彼を篭絡すれば自然と伯爵の信用も得られると思いますよ」
「篭絡って……」
「色仕掛けには引っかからないでしょうから、何か相談事を持ちかけてそれをきっかけに親しくなっていくといいでしょうね」
 目的を果たすにはだいぶ道のりが長そうだと感じたメリッサは、つい不安をこぼした。
「私、マテオ・テーペに登れるのかなぁ……」
「では、占ってみましょうか」
 ナディアはポケットから色のついた数個の小石を取り出すと、床の上で転がしたり弾いたりし始めた。
「あらあら……うふふ。きっと登れます。たぶん、あなたが大切に思う人と一緒に」
「えっ。だ、誰?」
「さぁ、そこまでは……。伯爵、団長、それとも思いも寄らぬ誰かかしら。ふふっ、楽しみですね」
 他人事のナディアは本当に楽しそうだ。
 対してメリッサはまだ見ぬ大切な人とは誰なのか、頭を悩ませるのだった。

 

☆  ☆  ☆


「……よいしょっと」
 取り除いた雑草をまとめた大きな籠を、掛け声とともに持ち上げるアウロラ・メルクリアス
 朝から熱心に草むしりをしていた、元は畑だった場所を見渡す。
 伸び放題だった雑草はきれいに取り除かれ、土がむき出しになっていた。
 がんばったものだ、と自分を褒めてもいいくらいの成果だ。
 雑草類は後で肥料や家畜のエサに回されるため、一ヵ所に集められている。
 額に汗を光らせながら、アウロラは重くなった籠を運んだ。
 指定の場所にはすでに雑草が山積みになっている。
 荒れた畑を蘇らせるために、みんなで汗を流した証拠だ。
 きっかけは、リルダが農地を増やすために森を切り拓こうと提案したことだった。
 アウロラは、農地を増やしたいのなら放置されている畑を蘇らせればいいのではと意見を出し、同意者の言葉もあってリルダも考えを改めた。
 そうして言い出しっぺということもあって、日々精を出してきたアウロラだったが、状況が安定してくると次のことを考えるようになっていた。
(畑の仕事が大切なのはわかってる。でも、人手も増えてきて土壌の問題もだいたい解決して……)
 もう、自分が抜けても大丈夫なのではないか。
 もっと他に、この地の人達に恩返しになることがあるのではないか──。
 考えに耽っていると、他の畑で働いていた人に声をかけられた。
 小柄な体と義足で人一倍働くアウロラが怪我でもしたのかと心配したようだ。
「ううん、大丈夫! でも、そろそろ休憩にしようかな。お腹空いてきたし」
 言葉を肯定するようにお腹が鳴った──声をかけてきた人のお腹が。
 二人は声を立てて笑った。
(うん、今は今できることを頑張らないと)
 アウロラは挨拶をして、空になった籠を担ぎ畑に戻っていった。

 

☆  ☆  ☆


 それは、アンセル・アリンガムを代表とする自警団が結成されてから、最初の見回りの日。
 いかがわしい輩に絡まれることが多少はあったが、特別に大きなトラブルもなく巡回予定地を回っていた。
 故郷の服を脱ぎ、ここに住む人達と同じ服に着替えて参加している岩神あづまも、問題を引き起こしそうな危険人物と見られる者が潜んでいないか、周囲に慎重に気を配っていた。
 しかし、途中で小休止になった時には、まったく別の想いが心を支配する。
 その想いに正直に、視線はアンセルへ。
 彼の腰巾着のようにくっついているルスタンと話し終えたアンセルは、あづまの視線に気づいた。
「どうかしたか?」
 歩み寄って来るアンセルに、あづまは小さく苦笑した。
 彼女が何を思ってアンセルを見ていたかなど、きっと考えてもいないだろう。
 あづまが洋服にしたのは、見回り時に動きやすいという理由が全てではない。
 アンセルに『普段と違う自分』を見てほしかったからだ。
 洋服姿のあづまに笑顔を返した彼。
 何を思っての笑顔だったのか。少しでも似合うと思ったのか。
 ほのかな想いを寄せる身としては、とても気になるところだ。
(ここで聞くものでもないかもしれませんが……)
「今日はお洋服にしてみました。いかがです?」
 アンセルは一度あづまを上から下まで見た後に、集合時と同じように微笑んだ。
「いつもの店での服装は見回りには向いていないだろう。良い選択だと思う」
 まるでトンチンカンな返答に、あづまは膝から崩れそうになった。
 けれど、アンセルのセリフには続きがあった。
「それに、なかなかに新鮮な上、良い着こなしだ。さすがというか、センスが良いな」
「ふふっ、悩んだかいがありました」
 余裕を持った態度で応じたものの、あづまの内心は嬉しさでいっぱいだった。

 

☆  ☆  ☆


 天気の変化について難しくならないように話して聞かせたクラムジー・カープに、ロシェル・オージェ達は尊敬の眼差しを向けていた。知的好奇心を刺激された目をしている。
 クラムジーはほのかに微笑むと、次に夜空のことを話し出した。
「星座を覚えていますか? 好きな星座はありますか?」
「星座は……あまり、良く知らなくて……。でも、春の星空は好き……私の、誕生日があるから」
「春ですか。いいですね。春は霞のために見えにくい日もありますが、流星群が見られる夜もあるんですよ」
「流星群……流れ星?」
「ええ。流れ星を見たことはありますか?」
「一度だけ……。お願い事、言う前に消えちゃった……」
 その夜を思い出したのか、残念そうに眉を下げるロシェル。
「もっと、早口で言わないと……ダメみたい」
 本気でそう思っている様子が微笑ましい。
 それとも、自分達の身に起こった不幸を認識できているからこそ、星に願いをかけたいと思っているのか。
 マテオ・テーペの夜に、星はない。
(今ある大空も、がんばってはいるけれど……本当の風、本当の太陽、月──そして星、星座、天の川)
 もう、二年も見ていないのだと改めて思い知らされる。
 大人でも堪えるのだから、多感な年頃に世界を奪われた彼女達の心の傷はいかほどだろうかと、クラムジーは憂いた。
(このお嬢さんには、気晴らしができる環境が必要だ……)
 今後、もし館に出入りできるならば、顔を合わせることもあるだろう。
 気にかけておこうとクラムジーは思った。

 

☆  ☆  ☆


 送別会が終わり、箱船のほうに流されるように歩き出しているベルティルデ・バイエルを見つけたリュネ・モルは、人混みの中に見失う前にその背を呼び止めた。
「ベルティルデさん、お会いできてよかった」
「あ、リュネさん。一言ご挨拶をと思っていました」
「いよいよですね。緊張していますか?」
「……はい。さすがに普段通りとはいきません。これから起こることも、その後のことも……」
「なに、そんなに気に病むことなどありませんよ」
 気楽に返したリュネは、次にはわざとらしい敬礼でこう言った。
「こちらは出航組が帰る先であるマテオ・テーペの地を守るべく、老体に鞭打ってがんばるばかりです!」
 きりっとした顔も、いつものリュネを知るベルティルデには、どこかひょうきんに見えてしまう。
 思わず笑うと、リュネも敬礼を解いて笑みを返した。
「みんなで一緒に作りました花壇のお世話は、男爵さまともどもお任せください」
「よろしくお願いします。わたくしも、あの花壇の思い出を大切にします」
「くれぐれも、お体にはお気をつけて」
「ありがとうございます。リュネさんも、お仕事をしすぎないようにしてくださいね」
 直接は見ていなくても、ベルティルデはリュネの働きを港町の人達との会話から聞いていた。
「すべてが終わりましたら、お約束した通り、まだ誰にも見せたことのない素敵な眺めをご覧にいれましょう」
「ええ、楽しみにしています。わたくしも、お土産話をたくさん持って帰りますね」
 二人は笑顔で約束を交わした。

◆笑って待ってるから
 まだクラクラする頭で周囲を見回してみると、青白い顔をした人達が大勢倒れていた。
 ひゅっと息を飲み込み、それから一緒に箱船を見送っていた人のことを思い出して、彼女は息をしているのかと忙しなくその姿を探す。
「カヤナ……」
 しかし、見つけた彼女の瞼は固く閉ざされたまま。何の反応もない。
 ぞくり、とクロイツ・シンの背筋が泡立つ。
「カヤナ……!」
 最悪のことなど考えたくない一心で名を呼び、強く揺さぶる。
(嫌だ、返事してくれッ)
 クロイツの心は恐怖に震えていた。
 ほとんど叫ぶように呼びかけ続けること数回、ようやくカヤナ・ケイリーの目が開いた。
「クロイツ……?」
 カヤナの目がクロイツを映した瞬間、彼はカヤナをきつく抱きしめていた。
「よかった……」
 腕の中の確かなぬくもりは、暗く震えていたクロイツの心を落ち着かせていく。

イラスト:ひゃく
イラスト:ひゃく

もぞもぞとカヤナが動き、顔をあげた彼女と目が合う。
「クロイツ、どうしたの? 泣いてるの?」
 言われて初めてクロイツは、自身の涙に気が付いた。
 カヤナの指先がそっと涙をぬぐう。
 クロイツは何となく照れくさくなってカヤナの頭を胸に押さえつけた。けれど、涙の理由は彼女にだけ聞こえるように教えた。
「……安心したんだよ」
 しばらくそうしてカヤナの生を再確認した後、頭を切り替えて体を離す。
「さ、あいつらも探さねぇと。他のヤバそうなのも。俺だけカヤナが無事で喜ぶなんてダメだろ?」
「そうね。……ねぇ、私もクロイツが無事でよかった。起こしてくれてありがとう」
「具合悪くなったら、すぐに言えよ」
「ええ。……あ、ねぇ、あそこ。こっちに向かって手を振ってる人達、もしかして弟さん達?」
「お、そうかも」
 クロイツも、笑顔で手を振り返す。反対の手に、大切な人の手のあたたかさを感じながら。

 

☆  ☆  ☆


 箱船が出航した翌日の早朝、トモシ・ファーロは移転した集会所を訪れた。
 手には大きめのバスケット。
 ドアの鍵は開いていた。
「予想通りというかなんて言うか……」
 苦笑と共にこぼしつつ中に入り、目的の人物がいると思われる会議室を目指す。
 半開きのドアから室内を窺えば、確かにその人はいた。
 トモシは大きくドアを開け、笑顔で朝の挨拶を口にする。
「おはようございます。まだ疲れてるだろうから、朝ごはん出前に来ましたっ」
「……え? トモシさん? どうしたの?」
「だから、朝ごはんの出前に来ましたよ。……と言っても、簡単なサンドイッチとあったかいスープだけですけど」
 言うと、トモシは紙類で散らかったテーブルの上を手早く片付け、バスケットを置いた。
「やっぱりここにいると思ったんだ。食事が終わったら手伝うよ」
「そんなダメよ。ちゃんと休まないと」
「さっそくここにいる人がそういうこと言うの?」
「でも……」
「まぁまぁ、まずは朝ごはんにしましょう」
 トモシはテキパキとバスケットの中身を並べていく。
 まだ朝食をとっていなかったリルダ・サラインもさすがに食欲をそそられ、食事をいただくことにした。
「おいしいスープね。あたたかいものはホッとするわ」
「よかった。……ねぇ、リルダさん、今日からは新しい日々が始まるね」
 箱船は旅立った。
 トモシが言う通り、今日からの日々はこれまでとは違うだろう。
 けれど、憂鬱ではない。それは、一緒に苦労してくれるという人が目の前にいるから。
 トモシは、まだ昨日の疲れを引きずりながらも明るい笑顔を見せた。
「これからよろしくね」
「こちらこそ」
 きっと問題だらけの毎日が来るとわかっていてもそれさえも楽しみになり、リルダも笑顔を返した。

 真新しい木の匂いがした。
 箱船出航から一日が過ぎ、ステラ・ティフォーネは移転した診療所のベッドで目を覚ました。
 広い一室で、他に何人もの人がベッドで眠っている。
 状況を教えてくれたのは、巡回に来た町医者だった。
 簡単にそれを説明すると彼は出て行き、この部屋で目を開けているのはステラだけになった。
 昨日のことを思い返す。
 箱船が無事にここを出るまでは意地でも倒れまいと踏ん張った。それは成し遂げることができた気がするが、その後のことはよく覚えていない。
(たしか、メイユール伯爵に魔法をかけてもらったのでしたね……)
 そのことさえおぼろげだが、何よりステラを落ち込ませるのは自身の体力のなさだった。
 一日経った今でもまだ全身がだるく、体を起こすこともできない。まるで力が入らないのだ。
 これでは手伝いもできない、と恨めしい気持ちになる。
(こんな私が生き延びれたのは何故でしょうか。幸運だったのでしょうか……)
 あるいは伯爵の魔法の腕が良かったか、それとも存外ステラもしぶといほうだったのか。
 何にしろ、すべては体力が戻ってからだ。
 きっとまた、忙しい日々が始まる。
 一年後に向けての新たな準備が。
(少しでも早く回復して、手伝いに行かないと……)
 はやる思いとは裏腹に、体は睡眠を要求する。
 ステラのまぶたは閉じられていき、意識は心地よい眠りに誘われていった。

 

☆  ☆  ☆


「毎日、山登りするの?」
 オーマ・ペテテの問いに、エリカ・パハーレは雷に打たれたような衝撃を受けた。
 二人はマテオ・テーペの頂にいる。人工太陽を射出したはいいが、昨日の今日でさすがにすぐに下山する体力がなかったのだ。二人の他にも火の魔術師数人が寝転がって休んでいる。
 そして、発されたオーマの問い。
 目を見開いたエリカは、何故かオーマに怒りだした。
「何でもっと早くに言ってくれないの!?」
「え、だって……」
「こんなとこ、毎日登ってたら死んじゃうよっ」
「えっと、じゃあ岩ゴーレムで運んでもらうとか」
「すごく効率悪い……それに、これからいろいろ使うとか言ってたし」
「水泳で体力つけるとか……」
「月の打ち上げもあるのに? 無理」
「いっそここに小屋でも建てて泊まる?」
「……」
 お気に召さなかったようだ。
 もっとも、この提案はオーマにとっても問題だらけのものだった。主に食事の問題だ。ここには水も食材もない。
 むっつりと黙り込んでしまったエリカは、しばらくすると肩を落としてオーマに謝った。
「ごめん、八つ当たりした。あたしの考えが足りなかった」
「そんな落ち込まないでさ、何か考えよう。もっと下のほうに移すとか」
「もっと下に……そうだね、それがいいのかなぁ。そうなると、場所取りのための工事が必要だよね……」
 仮に中腹に移したとしても、この岩山の下は森だ。
 朝はともかく夜は危険が増す。
(やっぱり送らないとだよね)
 森を出た後も、せめて家の近くまではついて行ったほうがいいだろう、とオーマは自分に無頓着なエリカに代わって心配するのだった。

 まだ少し気怠い体でリルダを訪ねて集会所へ行ったイヴェット・クロフォードは、荷物整理をしていた人から神殿に行っていると聞き、やっぱり、と小さくため息を吐く。
(無理をしていなければいいけれど……)
 イヴェットは神殿へ向かった。
 神殿の外で、リルダの他に二人が真剣な顔つきで何やら考え込んでいた。
 誰が見ても、考えがまとまらないといった様子だ。
「こんにちは。リルダさん、お話し中のところすみませんが、少し手伝っていただきたいことがありまして……お時間取れますか?」
「あら、イヴェットさん。そうね……解決にはもう少し考えないとダメね。伯爵の許可も必要になるし。それまでは、岩ゴーレムで運んでもらっていいかしら」
 リルダがそう言った相手はオーマとエリカだ。射出機の件で相談に来ていたのだ。
 二人は頷いた。
「私も気づかなくてごめんなさい。できるだけ早くまとめるから、また意見を聞かせてくれる?」
「わかった。じゃあ、また今度」
 オーマとエリカが去ると、リルダはイヴェットに向き直った。
 その顔にはやはり疲れが見える。
「疲労回復に効きそうなハーブティを作ってみたんです。試してみてくれますか?」
「あはは……何だか悪いわね」
「仕事のことなら無理をせず、皆に頼ってください。リルダさんは働きすぎだと思います」
 二人の足は集会所へ向かう。
「これでも、いろんな人に頼んでるんだけど」
「もっとどうぞ」
 礼を言いながらも、申し訳なさそうにするリルダ。
 そんな彼女に苦笑したイヴェットは、ふと空を見上げて箱船のことを思った。
 あの人達は元気だろうか。移住地は見つかるだろうか──。
(思いは尽きませんが、今はここでできることを一つずつですね)
 まずは、隣の仕事中毒にひと時の休息を。

 

☆  ☆  ☆


 体が弱いと言われていたロシェルは、意外にも翌日から動き回っていた。
 そして、訪ねてきた数少ない友人のイリス・リーネルトに誘われて足湯を訪れた。
 イリスを真ん中にリック・ソリアーノと並んで腰かける三人の話題は、領主の館の様子だ。
「お母様と伯爵様は、いつも通り。でも……みんな、疲れてるの。館は、いつもより静かよ」
「うん、新しい居住区も、静かかな」
「造船所もまだ活動は始めてないよ」
 ロシェルに続き、イリスとリックがそれぞれ見てきたことを伝える。
 元気になるにはもうしばらくかかりそうだ。
 沈みかけた空気を変えようと、イリスは温水プールのことを話し出した。
「ロシェルさん、今度は温水プールで泳いでみない?」
「わ、私……泳いだことないの」
「大丈夫、リック先生が泳ぎを教えてくれるよ。わたし、泳げなかったけど、リックに教えてもらって少し泳げるようになったから」
「リック君、泳げるんだ……すごいなぁ」
 ロシェルが尊敬の眼差しをリックに向けると、イリスも彼を見て微笑む。
 リックは照れて、湯の中の足をバタバタさせた。
「そんなすごいってほどじゃないよ。イリスも大げさなんだから」
「そんなことないよ。感謝してる」
「泳ぎか……うん、やってみようかな。私、もっと強くなりたいの。みんなの、役に立ちたい。こんなふうに思うようになったのは、イリスさん達のおかげだよ」
 ロシェルの微笑みに、イリスも笑みを返した。
「お菓子作りも、また一緒にしようね。わたし、ロシェルさんとも思い出をいっぱい作っていきたい。ロシェルさんのこと、好きだから」
 素直な好意を向けられ、ロシェルは真っ赤になってうつむいた。
 これからもよろしくね、と照れたその口から小さく紡がれた。

 

☆  ☆  ☆


 箱船が出航してから三日目の朝、新設された診療所のスタッフルームでヴァネッサ・バーネットと町医者のビルが深刻な表情で話し合っていた。
 初日の緊迫した状況こそ脱したが、気が緩み始めたこの頃になって緊急の患者が運ばれてくる事態が増えたのだ。
「こっちの人員も限られてるし、体力も無限じゃないからね……」
「助っ人が来るという話はどうなったんだ?」
「今日あたりって話だったけど」
 様子を見に来たリルダに説明したところ、魔法学校の教師だった人や伯爵に当たってみると言っていたのだ。
「第二次野外病院の設置も必要かな」
「そうじゃのぅ」
 その時、ドアが忙しなく叩かれた。
 きっと急患だ。
 二人は気を引き締めて部屋を出た。
 診察室のベッドには、真っ青な顔をした若い男がぐったりと横たわっていた。
 運んできたのは、アンセルとルスタンだ。ルスタンはしばらく謹慎していたが、今はまた新しく発足した自警団で働いている。以前よりも落ち着いた顔をしていた。
「失礼、手に触れるよ」
 一声かけてヴァネッサは男の手首に触れ、気脈の流れを探った。
 だいぶ乱れて弱っているのを感じ取った。
「過労と栄養不足……かな。しっかり休ませるんだね」
「過労か……昨日まではピンピンしてたのだが」
「最初の混乱時の緊張が解けて体調を崩す人が増えてるんだ」
 アンセルの疑問に、ヴァネッサは簡潔に説明した。その間にビルがベッドを手配する。
 患者が運ばれアンセル達が帰るのと入れ替わりで、今度は伯爵と騎士団長のアイザックが訪れてきた。
「急患だったようですね。先日リルダさんから回復の魔法を使える人はいないかと相談を受けまして。館のほうからも協力を申し出てくれた人がいましたので連れてきました」
 伯爵の後ろから中年の女が二人、ヴァネッサの前に出てきた。
「館で働いていた者達です。魔法の腕は保証しますよ」
 二人は落ち着いた微笑で挨拶をした。
 他にも必要なものがあれば言ってください、と言い残して伯爵は帰っていった。
 それからヴァネッサがさっそく仕事の流れを話し始めると、また患者が担ぎ込まれてきた。
 二人の女に緊張が走る。
「これだけは覚えておいてほしい。ここに来る患者はみんな、生きようとしてるんだ。そういう人を相手にするってことは、医者冥利に尽きるってことさ」
 からりと笑って白衣を翻すヴァネッサに続く二人の顔に、緊張だけなく新たな使命感も生まれつつあった。

◆もう一度、つながるために
 眼下にあったマテオ・テーペの輝きが見えなくなってどれくらいが経ったのか。
 エリス・アップルトンは、箱船の障壁維持のために装置に魔力を注ぎながら、去来する不安を押し殺していた。
 船はちゃんと海上を目指しているのか?
 故障はしていないか?
 無事にたどり着けるか?
 ふぅ、と小さく息を吐く。肩がカチコチになるくらい力が入っている。
 緊張しすぎはすぐに集中力が下がってしまう。
 船長室は静まり返っている。
 みんな、エリスと同じ不安を抱えているのか、それとも何の心配もしていないのかはわからない。
 しだいに息苦しさを覚え始めた時、ルースが声を発した。
「もっと楽にしなさい。この船は大丈夫よ。そう簡単にどうにかなったりなんてしないから。それよりも、海の上に出た時にはしゃぎすぎないようにね」
「海の上……。最初に見るのは、太陽の明かりでしょうか。それとも、満天の星空でしょうか」
 どちらを見るにしろ、三年ぶりだ。
 きっと、昼なら太陽の力強さに、夜なら空の広さに感銘を受けるに違いない、とエリスは思った。
 それからまた沈黙の時間が訪れたが、この時は不安も息苦しさも感じなかった。
 ただ静かに『その時』を待ち──それは、ゆるやかにやって来た。
 船の周囲が明るくなってきている。海上は昼間の時間帯のようだ。
 室内の空気がざわめく。下の船員室もおそらく同じだろう。
 魚、と誰かが言った。見ると、船の周りに魚の群が泳いでいた。
 エリスの胸が期待と興奮でドキドキと脈打つ。
「出ます──!」
 船長の声の後すぐ、箱船はついに水の境界を突破した。
 あまりの眩しさにエリスは目をつぶってしまう。
 人工太陽とはまるで強さが違う。
(この光を、海底の皆にも!)
 頑張らなくては。
 エリスは、ゆっくりとまぶたを開けた。

 箱船が海上へ出た後、甲板は乗組員で溢れ返った。
 三年ぶりの太陽を空を、外の空気を、誰もが喜んだ。
 ルース・ツィーグラーももちろん同じ気持ちだが、彼女は船長室に残って甲板での騒ぎを眺めていた。
「あんたも行ってきたら?」
 ルースは傍らに立つマティアス・ リングホルムを見上げた。
「今行くと、うっかり海に落ちそうだ」
 実際、落ちかけた者もいる。
「まったく、はしゃぎすぎよ。ここからが本番だっていうのに」
「本番前の充填ってとこだろ」
 やや呆れた目で甲板を眺めるルースの髪や服の裾が海風に揺れる。
 自然の風も、三年ぶりだ。
「陸地、必ず見つけたいわね」
 呟くような声だったが、固い決意もはらんだ声だった。
 マティアスも頷く。
「全員、連れてきたいな」
「あんな大きな岩山はないかもしれないけど、町の名前はやっぱりマテオ・テーペかしら。もう国も何もないでしょうから、地名を新たにつけるのは自由よね」
「何だ、あんたもけっこうはしゃいでんじゃねぇか。まだ見つけてもいねぇのに」
「ちょっとくらいいいでしょ。──もう、そこは黙って頷てればいいのよっ」
「ははっ、俺も浮かれてるみたいだ」
 ムスッとした顔で睨み上げるルースの髪には、前にマティアスが贈った髪飾りが光っている。
 ルースはそれを大切に身に着けていた。
「マティアスの願いも、きっと叶うわ」
 静かだがきっぱりと言い切ったルースは、一瞬恥ずかしそうにためらった後、マティアスの手にそっと触れた。

 その日の夜の最初の見張りはヴォルク・ガムザトハノフとジスレーヌ・メイユールだった。
 見張り台の下は先ほどまで三年ぶりの星空を堪能して宴会状態だったが、さすがに明日からの仕事を思って船長がお開きにさせた。
 静かになった見張り台で、二人は一枚の大きな毛布にくるまって夜空を見上げていた。
「月と星と……こんなに綺麗だったんですね。ヴォルク君、どうしましょう。私、これから夜更かしが続いてしまいそうです」
「日付が変わる前には寝たほうがいい……と、真砂の客の誰かが言ってたな。背が伸びなくなるんだとか」
「えっ。それは困ります。私、もっと大きくなりたいですから」
「もっとって、どれくらい?」
「フレンさんくらい」
「……そんなに大きくなってどうするんだ?」
「フレンさんくらい大きくなって、体力もつけて、魔法のお勉強もして、移住地でいっぱい働くのです。オオカミさんが襲ってきても、やっつけちゃいます」
「やっつけるのは俺がやる」
「ヴォルク君だけ戦わせるわけにはいきません」
「気持ちは嬉しいけど、女の子を戦わせるのはなぁ……」
 だいたいジスレーヌがヴォルクのように鍛えている姿は見たことがない。
「じゃあ、こういうのは? ヴォルク君は風の魔法で攻撃を、私は地の魔法で守りを。ヴォルク君に怪我なんかさせません」
 出航時に大泣きしていたジスレーヌだったが、海上に出たら腹を括ったのかすっかりたくましくなってしまった。
 その時、ひゅう、と冷たい夜風が吹いた。
「ジスレーヌ、寒くない?」
「平気です。二人でくるまってるとあったかいですから」
 実はこの会話は船長室に筒抜けであった。
 うっかり伝声管の蓋を開けていたからだ。
 翌朝、大人達からからかわれることになるのを二人はまだ知らない。

 

☆  ☆  ☆


 出航から三日後。
 この頃には、乗組員の船内での持ち場がだいたい決まっていた。
 その内の一つである食糧管理に、マルティア・ランツリベル・オウスがいた。
 マルティアは食糧の消費量や運び込んだ水耕栽培関係を、リベルは栄養バランスの考案の他、乗組員の体調管理も受け持っていた。
 狭い執務室で二人は各記録を丁寧に確認し、不足があれば追加記入をしていく。
 保存食の消費量はほぼ予定通り。水耕栽培の野菜も順調に育っている。体調不良を訴える者はいるにはいるが、ほとんどが船酔いだ。彼らには、リベルが薬を処方していた。
 それが終わると、マルティアは航海日誌を開き今日の出来事を書き込んでいく。
「さすがにそこまでは期待してなかったけど、やっぱりそう簡単に陸は見つからないね」
 どこまでも、海だ。
 幸い天候は安定しているが、これからはわからない。
 嵐の日は船がひどく揺れ、下手すれば転覆もあり得ると聞いた。
 いち早く天候の変化に気づくにはどうすればいい?
 その時に気分を悪くした人への対処法は?
 もしも怪我人が出たら?
 考えは尽きない。
 船に乗るみんなを支えたかった。
「ねぇ、また薬草のことを教えてくれる?」
 記述を終えたマルティアが顔をあげてリベルを見る。
 資料に目を通していたリベルは、じっとマルティアを見つめ……ため息を吐いた。
 そして一言。
「休め」
「……え?」
「顔色が悪い。やりすぎだ。今日はもう休め」
「でも……」
「航海はまだ続くんだ。くたばってる暇はねぇ」
「大丈夫なんだけど……」
 日誌を棚に戻そうと立ち上がった時、マルティアはくらりと眩暈を覚えた。とっさに机に手をついて体を支える。
 ほらみろ、とリベルが見ている。
「一人で全部やろうとするな。もっと人を使え。わかったら休め」
「あはは……言う通り、今日はお休みするね。ごめんね、また明日からよろしくね」
 帰りがけにマルティアは疲労回復に効く薬を渡された。
 乗組員用の船室に戻る前に、少しだけ甲板に出る。
 午後の陽射しは強めだったが、きらきらと輝いていた。

 マルティアに休養を言い渡した後、リベルも必要な確認を終えて執務室を出た。
 見回りも兼ねて船内を歩いていると、籠にシーツを山積みにしたベルティルデと鉢合わせた。
「姫さん……何やってんだ?」
「こんにちは。お洗濯ですよ。これは洗って乾かしたシーツです」
「姫さんがすることじゃねぇだろ」
「何もしないわたくしは、ただの穀潰しですから」
 穀潰し──それは、今日の朝にリベルがベルティルデに相談を持ち掛けた際に言った言葉だ。
 ──持ち込んだ薬や材料は、マテオ・テーペ帰還まで持たねえだろう。そしたら俺はただの穀潰し。
 だから、食事の栄養と乗組員の体調管理を任せてもらえないか、と申し出たのだ。
 リベルの調薬の腕を知るベルティルデの推薦で、船長から正式に任されることになった。
 そんな彼に、ベルティルデも触発されたようだ。
「こうすることで、皆さんとも仲良くなれますし」
「姫さんがいいならいいけど……」
「ふふっ。早く陸が見つかるといいですね」
「そうだな。……あ」
 不意にリベルはベルティルデとした約束を思い出した。
「ダンスパーティの時の約束……姫さんと踊るにはまだまだだが、帰るまでには形にする。だからその時は、一曲踊って採点頼むな」
「ええ。わたくしも恥ずかしくないように練習しておきます」
 笑顔で答えたベルティルデは、優雅にお辞儀をして船室のほうへ行った。
 リベルはふと思い立ち、執務室に戻るとワルツのステップの復習を始めるのだった。

 船の点検に一段落着いたコタロウ・サンフィールドは、甲板に出てぼんやりとした心地で風に吹かれていた。
「どうかしたのですか?」
 そんな時に声をかけてきたのがベルティルデだった。
「ぼーっとして、どこか具合でも……」
「あ、ううん。違うよ。……あーあ、みっともないとこ見られちゃったなぁ」
 コタロウは気まずくなって頬をかいた。
「ちょっとね、あの連中が懐かしくなっちゃって。ベルティルデちゃんは休憩?」
「ええ。お掃除が一通り終わったので」
「相変わらず働き者だね」
「そんなこと。コタロウさんに比べたら簡単なお仕事です」
「そんなことはないと思うけど。でもまあ……技師長なんてどうなることかと思ってたけど、今のところ何とかなってて良かったよ」
 整備員は見知った顔ばかりなのも頼もしかった。
「やっぱり、眩しいですね」
 手をかざして空を見上げるベルティルデ。
 それに倣ったコタロウも同意する。
「そうだね、眩しくて熱くて……向こうの皆にも早く体験させてあげたいな。──がんばらないと」
「わたくしにも、お手伝いできることがあったら言ってくださいね」
「ありがとう。さしあたっては……ダンス、楽しみしてるよ」
 少し照れながら言ったコタロウだが、内心では特訓しなくてはと決意していたりする。
「ふふっ、わたくしもです。それと、その……今さら言いにくいことなのですが……」
 不意に口ごもったベルティルデは、しばらくためらった後、心を決めてコタロウに打ち明けた。
 ──かつての王国の姫は、ルースではなくわたくしなのです。
 事情があって入れ替わっていたのだと詳しいことを話し、今まで黙っていたことを謝った。
 この三日間でルースがコタロウの接し方に疑問を覚えなければ、ベルティルデもコタロウが知らないことに気づかなかっただろう。
 謝らないでと言いつつも、コタロウは今までのベルティルデとの記憶を振り返り、失礼はなかったかとあたふたする。
 ベルティルデも申し訳なさで眉を八の字にしている。
 奇妙な二人の空気を元に戻したのは、外の様子を見に来たルースの呆れ声だった。

 



こんにちは、冷泉です。
ファイナルシナリオへのご参加ありがとうございました!
最後の最後までお付き合いしてくださったことに、さらに感謝を捧げます。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

 

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