『思い出エピソード』

川岸満里亜

~洪水から2年後の日常~


 大洪水から2年が過ぎたある日のこと。
「ただいま! 今日は肉が手に入ったぜ。おばさん、シチュー作ってくれよ」
 マティアス・ リングホルムは、根菜と少しの肉を持って港町の家に帰宅した。
 この家に『ただいま』と帰るようになって、もう2年。
 2年前、こんな風にここラーゲルレーヴ家に帰ってきたのは、自分ではなく親友のセルジオだった。
 マティアスは元々孤児であり、1人で暮らしていけるだけの力を持ってはいた。しかし、この親友の両親たちは肉体労働に長けてはおらず、息子を失……いや、避難させて残ったこの2人を心配に思い、自分が働き手となれれば、食糧の確保もしやすいかと一緒に暮らすことにしたのだ。
「家の中はもっと静かに歩け」
 部屋のドアを開けた途端、先に戻っていた親友の父から叱られてしまう。
 こんな時、親友ならすぐに『ごめんなさい』と謝罪したのだろうが、マティアスが返した言葉は「うるせー」。
「お帰りなさい。疲れたでしょ? 食事ができるまで休んでてね」
 マティアスから荷物を受け取り、親友の母は優しく彼に微笑みかける。
 その微笑みを見るたびに、マティアスの脳裏に優しく明るかった親友の笑顔が思い浮かぶ。
 あの時――自分が港で親友を見つけていれば。
 今でも家族3人で暮らせていただろうに。この微笑みは親友に向けられ、親友の父も穏やかでいられただろうにと、マティアスは罪悪感を抱いていた。
「その格好も、もう少しどうにかならんのか」
「これ? 全然普通だし」
 親友の父とはそりが合わず、長く会話をしていると、喧嘩になってしまうことが多いのだが。
「ご飯もうすぐできますよ。お腹が空いているから、おこりっぽくなっちゃうのよね」
 そんな時は、親友の母が穏やかに2人を制してくれる。
 喧嘩になる前に出来上がった食事を、3人で一緒に食べ始める。量はあまり多くないのだが、身体が温まっていく。
(アイツもちゃんと、食えてるかな……)
 マティアスは日々友を想いながら、温かな食卓の席に居た。 

 

 

~火山、出発前の休息~


 火山を鎮めに向かう前――。
 メリッサ・ガードナーは、レイザ・インダーを治療するため、毎日彼の部屋を訪れていた。
「随分良くなったね……」
 その日の治療を終えた後、メリッサはレイザを意味ありげに眺めていた。
 彼はソファーに腰かけ、白の刺繍入りのシャツに黒のスラックスといった、比較的ラフな格好をしている。
「なんだ?」
「あ、ええっと……ほら、レイザくんが部屋に呼んでくれたのって、治療のためじゃなかったよね? 何するつもりだったのかなーって」
「ああ、腕相撲か」
「まさか、ホントに、ほんとうに腕相撲がしたかったわけじゃないよね!?」
 じーっと、じぃぃっとメリッサはレイザを見詰める。
 くすっと笑みを浮かべて、レイザはメリッサの頬に手を当てた。
「男が、女を部屋に誘ってしたいことといったら、一つだろ? わからないのか」
「わからなく、ないよ」
 鼓動を高鳴らせながら、メリッサが答える。覚悟はできていた。自分から求める勇気はないけれど……。
「まあ、でも何もしないけど」
 途端、レイザはそう言ってメリッサから手を離した。
 メリッサはしばし呆然とする。
「……レイザくん、そういうのばっか! 毎度毎度、覚悟させておいて、そういうのばっか! ばっかばっかばかばかばかー!」
 顔を赤くして、羞恥とも怒りにも見える表情で言うメリッサを、可笑しそうに笑いながらレイザは見ていた。
「お前のそういう反応が好きなんだ。諦めろ」
「むーっ」
 しばらくの間、メリッサは恨みがましげにレイザを睨んでいた。
 レイザはそんな彼女の頭に手を乗せると、穏やかに尋ねる。
「俺の唯一の願いを叶えてくれるのなら、それまでの間ここで出来ることなら何でもする。何が望みだ、メリッサ」
「あのね、ダンスはやっぱり心残りだから、したい、かな。あと腕相撲より、腕枕の方がいいよ。レイザくんだって、膝枕の方がいいでしょ?」
「俺はお前が部屋にいて、こうして話をしているだけで十分だ。ただ、お前は時々俺の心を抉るようなことを言うが」
 そんな時は、と。
 レイザはメリッサを引き寄せて、彼女と唇を重ねた。
「……こうして口を塞いでしまえばいい」
 胸が熱くなり、メリッサは思わずレイザに抱き着いた。
 強くもなくきつくも、苦しくもない。ただ優しく、愛しげに、大切に、レイザはメリッサを抱きしめてその身で包み込んでいた。

 

 

~火山終息後のひととき~


 火山に救助に向かった際、ファルは魔法――舞いにより、精神が奔放なる「火山の女神」と化していた。
 その状態のまま帰還し、新たな居住区で療養生活を送っていた彼のもとに、共に洞窟で魔法鉱石探索に当たっていた囚人たちと騎士団員が見舞いに訪れた。
「大丈夫か? 寝てていいんだぞ」
 赤く火照った顔で出てきたファルに、心配そうに言う囚人たち。
 彼等の手を借りて、ファルはロビーのソファーに腰かけた。
「まだ熱があるのか?」
 囚人の一人が、ファルのおでこに手を当てた。
「少しだけ」
 とろんとした表情でファルは囚人たちを見上げる。
 ほんのり赤い表情で、気だるげに見上げるファルは艶かしく美しく、囚人たちは息を飲んでファルを囲んで座る。
「少しか? 結構あるみたいだぞ」
「ホントだ、無理すんなよ」
 そして代わる代わるおでこをくっつけたり、首筋に手を当てて熱を確かめたり……。
「大丈夫。でも少し、肩を貸してください」
 そうファルは囚人の1人にしなだれかかった。
 ドキーンと囚人の心臓が跳ねる。
 顔を赤くして「おうおう、いくらでも貸してやるぜー」と囚人はファルの肩を抱くのだった。
「ゴホン」
 騎士が咳払いをする。彼は知っていた。ファルの性別が男であることを。
「……む……」
 しばしの葛藤の後、騎士は結局囚人に言わなかった。
「よし、おっちゃんが部屋まで運んでやろう」
「汗もかいてるようだし、着替えが必要だよな。手貸してやるからな」
 そんな感じで、囚人たちはファルを抱き上げて部屋へと連れていく。
 騎士は生暖かい目で彼等を見守っていた……。
 そして、数分後、部屋から囚人たちの嘆きの声が響いてきたのだった。

 大地に雪が、まだ残っていた。
 アリス・ディーダムは毎日、水の障壁の間際まで来ていた。
 町ではなく、火山が在る方向の山の中、だった。
 そして封鎖された洞窟の前を通って、帰るのが彼女の日課になっていた。
「船に乗るのはやめました。レイザさんがいないと意味がないから」
 火山の方に向かい、アリスは誰かにそう声をかけた。
「怒られてしまいますね、魔法学校を辞めたことも」
 それでもいい。
 叱ってくれても、例え怒鳴られたって。
 帰って、来てくれれば……。
 毎日、夢に見るくらい会いたかった。
『アリス』
 彼の声が、自分を見る瞳がアリスの脳裏に浮かびあがる。
 彼女の手の中には、今日届いた手紙がある。
 レイザが、全てが終わった後、彼女の手に届くよう手配してあったもの。
「生まれ変わってもレイザさんに会いたい」
 でも、今は彼がまだ生きている気がして、胸がざわめいていた。
 ふと、彼が近くにいる感覚を覚えることがあった。しかし、その先にいるのは彼ではない別の男の人――。
 アリスは左手の薬指に嵌めている指輪に、右手でそっと触れた。
「会いたいです。どんな姿でも」
 風がなくても、この世界はとても寒かった。
 凍ってしまいそうな身体と、心を、アリスは自分自身で抱きしめる。
「帰ってきて、ください……」

 

 

~箱船出航後、マテオ・テーペにて~


 箱船が出航して数時間後――。
(目が覚めた……と言うことは、一先ず皆助かったんだろうな……)
 トゥーニャ・ルムナは新たな居住区の自室で目を覚ました。
「町の皆はどうなったんだろう? 箱船は無事出発できたのかな?」
 確認しなきゃと思い、トゥーニャはベッドから下りる。
 気だるさを感じるが、魔法は普通に使える。魔法が使えれば歩くことくらいはできる。
「でも、確認しなくても一つだけ分かっていることがある」
 ドアに手をかけながら、トゥーニャは思う。
「そう、ぼくたちは『全員で帰る』ことが出来なかった……」
 そのままの姿勢で、トゥーニャはしばらくの間、火山に行った時のことを思い浮かべていた。
 皆、出来る限りのことをした。でも、全員で帰ってこれなかった。それは事実。
 その真実を知っているだけに、辛くもあったけれど。
「……これからを精一杯生きていくしかないよね」
 ドアを開けて、更に小さくなった世界、マテオ・テーペへと出た。
 風の助けを受けながら、トゥーニャはこれまでと同じように、お散歩しながら、この世界を観てまわる。
 人々は起き上がり、人としての営みを再び始めたところだった。
 この世界は希望に溢れていない。だけれど、希望を信じる確かな命が、まだいくつも残っている。

 

*  *  *


 箱船出航から数日後。
「サーナ、お疲れさん。お昼にしようぜ」
 サーナ・シフレアンの親衛隊員であるラトヴィッジ・オールウィンは、サーナを神殿の庭へと連れ出した。
 ルース姫と、魔術師の多くが出航した後、彼女は障壁維持の要として、水の神殿で日々仕事に勤しんでいた。
 ラトヴィッジは彼女の騎士として、常にサーナの体調を気遣いつつ、食事も共にしている。
 庭に置かれた椅子に腰かけて、ラトヴィッジはテーブルの上にサンドイッチを広げた。
「ラトいつもありがとう。いただきます」
 感謝をしてから、サーナはサンドイッチを口に運ぶ。
「味はどう? 男の手料理って奴だけど、まぁまぁイケてると自分では思うんだけど」
 自分でも食べながら、ラトヴィッジがそう尋ねると、サーナはもちろんとても美味しいと答えた。
 味が美味しいだけではなく、卵や野菜をたっぷり使った出来る限りの栄養がとれるものだった。
「ほんとラトには何も敵わないなぁ。女の子らしいことで、何かラトより出来ることないかな」
 んーと考えるサーナはとても可愛らしく、それだけで十分女の子らしいと思い、ラトヴィッジは顔をほころばせる。
「障壁の方はどうだ? 今の人数で慣れてきたか?」
「そうね。良くも悪くも範囲が狭まったから、以前とは負担の量も違うし。今の状態が続くのなら、しばらくは維持できそう」
 しばらくは――そう。障壁を張るために使われている魔法具は他に代わりのない道具だ。
 使われている魔法鉱石や聖石も永遠に力を発揮できるものでもない。
 全員が脱出するのが先か、魔法具が力を失うのが先か。
 どのみち、ルース姫が戻らない限り、サーナは最後の最後まで、ここに留まるのだろう。
「何かあれば、遠慮なく言ってくれ。俺は君の親衛隊員で、君の一番の応援団だからな」
 そう微笑みかけると、サーナはこくりと首を縦に振った。
「頼りにしてる。ずっと、側で支えていてね。私もあなたに喜んでもらえること、何か出来るようになるから」
 手を伸ばして、サーナはラトヴィッジの手を掴み、ラトヴィッジは彼女の手を握りしめて強く頷いた。

 エイディン・バルドバルはその日、新たな居住区の自室にいた。
 彼が仕事の合間に、魔法学校の図書室で学び始めてから数十日が経ち、読める文字も増えてきていた。
 今日は一日予定がなく、ベッドに座ったままエイディンは1人思案していた。
「今ならば……おそらく」
 そして、意を決すると懐の中から手紙を取り出す。
 それは、すぐ下の妹が代表して、妹弟たちの近況を記した手紙だった。
 自分宛てにわかりやすい言葉で書かれてはいたものの、読めない文字もあった。
 だけれど、今ならば――。
 エイディンは手紙を開くと、書かれている文字を、一文字一文字かみしめるように、ゆっくりと読み進める。
 最後の一文字まで読み終ると、深く息を吐いた。
「……っ」
 大きな手で自らの目を覆い、天を仰ぐ。
「……絶望するまでは決して泣くまいと思っていたが……今だけは、許してくれ……」
 手の隙間から、頬を伝い涙が床にこぼれ落ちた。
 外の世界を自分の目で見て、妹弟たちの生死に絶望をするまでは、泣くまいと。
 人のいる場ではもちろん、1人の時でさえ、エイディンはずっと感情を堪えてきた。
 妹、弟たちの姿が、声が、笑顔が思い浮かび、深い愛しみの感情に胸が締め付けられる。
 今、彼は1人、歯を食いしばり。静かに涙した――。

「ん……あれ、私……」
 新たな居住区に在る病院の病室で、アウロラ・メルクリアスは目を覚ました。
「あ、目を覚ましたのね。大丈夫?」
 手伝いに訪れていた街の女性が、アウロラに近づいてきた。
「そっか、出航の時に力が抜けて」
「そう、あなたは意識を失って3日間、眠っていたのよ」
「そんなに寝てたんだ」
 体を動かしてみようと思うが、酷く重くて全く動かなかった。
「全然回復してないなぁ……」
 そう言う声にも、過去のような張りはなく、弱弱しく。
 笑顔を見せようとしても、表情も大きくは変えられない。
「早く、体力戻して……お仕事しないと」
「……人手は足りないけれど、無理をして倒れたら、もっと皆大変になるから。だから、今は休んでいて」
 女性はそう、アウロラに優しく声をかけてくれた。
 だけれど、いつまでも休んでいるわけにはいかない。
 火山から帰ってきて、もう1カ月以上経っているのだ。あれから、自分は皆に助けられているだけで、ただ命があるだけで、何も……できていない。
「あ……」
 起きていたい、やりたいことがある。だけれど、アウロラは抗えない強い眠気に襲われる。
(出航前までも体力全然戻ってなかったし、魔力も全然感じられない……ちゃんと回復するよね……?)
 自分の身体に問いかけても、答える声はなにもなく。
「お仕事できなくなったら、私行くところが無くなっちゃ……」
 ただ強く闇の中に引っ張られ、意識が沈んでいく――。
 彼女の周りには、沢山の花が飾られていた。
 今は障壁の外となった場所から、人々が摘んできた花が優しく彼女に微笑みかけていた。

「今日はお庭に出ませんか?」
 ピア・グレイアムは毎日、バート・カスタルの見舞いに訪れていた。
 心身共に不自由ではあったが、バートの体力は概ね回復している。
 館の使用人に手助けしてもらい、バートはピアと共に庭園へと出て、ベンチに並んで腰かけた。
「やっぱり外はいいな……水中とはいえ」
 ベンチで息をついて微笑むバートを見て、ピアは安心感と幸せに包まれる。
「もう少し動けるようになったら、まずは館の敷地内の散歩から初めて、造船所、そして神殿まで歩けるようになったら、仕事に本格的に復帰だな。時間のある時だけでいい、付き合ってくれるか?」
 バートの言葉に、ピアは喜んでと頷く。
「神殿までの道はキツイので、もう少し緩やかな道からハイキングしてみましょうね」
「うん、そうだな。花の咲いているところに行きたい……君へのプレゼントを作りに」
「良い場所、探しておきますね」
 早く一緒に出掛けられる日が来るといいなと思いつつ、でもその後、彼が仕事に復帰したら一緒に過ごす時間はとても少なくなってしまうんだなと、ピアは少し寂しい気持ちにもなる。
「あのさ」
「はい」
「ピアは家出ること出来るか? そのうち一緒に暮らせたらなって」
「えっ?」
 突然の言葉に、ピアは目を丸くして驚いた。
「あ、まだこういう話は早すぎるよな、ごめんッ」
 言って、バートは恥ずかしげに赤くなりながら「やっぱり外は気持ちいいなー、ははは~」と笑う。
 つられてピアも笑顔になりながら――軽く、俯いて。こっそり少し、体を近づけた。
 そんなに遠くない未来、自分は彼が帰ってくる場所になるのかも、しれない。
 見上げれば、大好きな笑顔が間近にある。
 ここは、とてもとてもつらい世界。だけれど、確かな幸せが間近に在った。

 早朝。
 ナイト・ゲイルは深く集中し、魔法でランプに火をつけようとする。
 しかし、目標物に的確に火をつけることはまだできずにいた。
 ただ、時間をかければ燃えやすいものに火をつけることくらいは出来るようになっていた。
 そう、彼は魔法が使えるようになっていた。
 自主練を終えた後は、見回りに出かける。
 新たな居住区にある市場には、既に多くの人々の姿があった。
「早いな、買い出しか?」
 見知った顔――元囚人の男性の姿を見つけて、ナイトは近づいた。
「お、おう。今日は当番だからな。別にかっぱらおうとかしてねーからな!」
「疑ってねぇよ。それで、お前等今日空いてるか? 仕事手伝ってもらえたら有り難いんだが」
「仕方ねーな、忙しいけど手伝ってやるよ」
 そう元囚人は答えるが、彼らはまだ職に就いてはおらず、騎士団の仕事を手伝い対価を得て、なんとか暮らしているところだった。
 詰所で元囚人たちと合流し、ナイトは2人1組での見回りを提案して、担当区域を決めていく。
「魔法使えないお前には、俺らの力が必要だからなー」
 はっはっはっと笑いながら、元囚人の一人がナイトの肩を叩いてくる。
「そのうち使えるようになるさ。でさ……」
 ナイトは元囚人たちに向き直った。
「手伝ってくれて、ありがとう。神殿での生命力提供とか……危険はないと思っていたが、それでも命がかかってた。断られても仕方なかったから」
 元囚人たちは顔を合わせて、気まずそうな笑みを浮かべる。
「まー、俺らは自分達のためにやっただけだしな」
「俺らだけじゃなくて、他の皆もそうだろ。皆、自分達のために動いてる」
「お前を手伝うことで、お前が護ろうとしている奴らも『俺ら達』の一部になってる感じでなんか変だけど」
「どーでもいいよな。折角命があるんだ、自分が死ぬまで楽しく生きれる方法を考えていくだけさ」
 そんな風に、元囚人たちは笑った。
 ナイトも淡い笑みを浮かべる。彼等を助けようとしたこと、彼等の力を借りて、協力し合っている今は間違いではないと言い切れる。

「無事でよかった、ホント助かってよかった……」
 箱船出航後、マーガレット・ヘイルシャムの顔を見て、バート・カスタルは安心した表情で何度もそう言った。
「箱船出航時の生気はマテオ・テーペ内の人々から平等にとられたのでしたね。バートこそ無事でよかったです」
「体は思うように動かせないけど、皆や君がわけてくれたこともあり、生きる力だけは十分あるんだろうな、俺は」
 彼の言葉に微笑んで、マーガレットはベッド脇の椅子に腰かけた。
「これからのことを考えていたのですけど、私には豊富な知識はありますから、ここに残った人たちに私の知識を役立ててもらえたらと思います。予定だったマテオ・テーペ回顧録もそろそろ執筆し始めようかと」
「そうだな。あ、でも俺の情けない姿はあまり書くなよ。弟が苛められそうだ」
 くすっと笑って、マーガレットはこう続ける。
「傍らで小説も書いてますけど……ああ、薔薇騎士物語じゃないですよ。今書いているのは亡国のお姫様と騎士の純粋な恋愛物で……」
「まともな純愛小説書いてるのか」
「ええ、あ、薔薇騎士物語の方も純愛ですよ? とはいえどちらも……いえ、特に男女の恋のお話は、バートには退屈で理解しづらいでしょうけど……」
 意味ありげにじっとバートを見詰めると、バートは怪訝そうに首を傾げた。
「いや、そんなことないけど、ああでも確かに恋愛小説は読んだ記憶がないな」
「では、完成したらお見せしますね」
「うん、楽しみにしてる。……それでマーガレット」
 バートは穏やかな目を、まっすぐマーガレットに向けた。
「はい」
「俺は、君を次の箱船に乗せたい」
 バートのその言葉に、マーガレットは思わず息をのんだ。
「生きて、この世界のことを伝えてほしいんだ」
「あなたやサーナが……最後まで残る人が死ぬようなこと言わないでください」
「サーナちゃんも、送りだす。だけれど、どうにもならないこと、俺には出来ないこともあるから、さ。君の身体のことも」
 大丈夫、だとは言えない。
 正直体の状態はあまり良くはない。次の箱船が出航する時、マテオ・テーペに残る人々の数は更に減る。
 残るならば、自分は生き残れないだろう……とも思ってしまう。
「記録に残すべきじゃないことも、君には知っていてもらいたいと思う。この世界で君の知識を活かした後は、外の世界で役立ててほしい」
 首を強く左右に振りたかった。
 この人は、ホント女心というものがまるで解ってない。
 そんなこと、今言わなくたっていいことだ。
「考えておきます」
 悲しげに微笑んで、マーガレットは立ち上がる。
 箱船が戻ってくるまでの間、マーガレットには教えていくべきこと、知るべきことが沢山ある。
 多分、1年はあっという間だろう。

 造船所に続く道を、イリス・リーネルトはリック・ソリアーノと共に歩いていた。
「リック少し背、伸びた?」
 頻繁に合ってるから気付かなかったけれど、彼を見る時、少し見上げるようになっていることに、イリスは気付いた。
「うん、成長期が始まったのかな。嬉しいような、怖いような……」
「怖い?」
「成長期が終わったら、大人と見なされるからね、しっかりしなきゃって思うんだ。イリスは……」
 リックの視線を受けて、イリスはちょっと赤くなり、俯いた。
「わたしも、ほんのちょっとだけど成長してるんだよ。い、色々と」
「う、うん……」
 何故かリックもほんのり赤くなり、下を向く。
「わ、わたしたちまだ大人未満だけれど、1人の人間としてみんなの役に立っていかないとね」
「うん、出来ることをしていこう」
「わたしはもう少し体力をつけないと。きちんと障壁維持のお手伝いできるようになりたいし」
 考えながら頷き、イリスはリックに目を向ける。
「リック、一緒にトレーニングしない? メリッサさん……ええっと、お友達にトレーニング法教わったんだ」
「そうだね、一緒にやると長く続くと思うし、それを理由にイリスと一緒にいられるのも嬉しいから」
 そんなリックの返事に、イリスの顔に笑みがこぼれる。
 2人は自然に手を繋いで、同じ歩幅で一緒に歩いていく。
 きっとこれからもずっと。

 

 

~箱船出航後、箱船にて~


 箱船出航後、割り振られた仕事を終えた後も、ウィリアムは挨拶に回り、仕事を手伝ったり、他の乗組員との関係づくりに励んでいた。
 貴族でも水魔術師でもない彼に割り当てられた部屋は、二段ベッドが並ぶ男性用の大部屋。
 アーリー・オサードとは別室であった。
「随分仕事熱心なのね。そんな人だったかしら?」
 お昼休憩時、食堂にて食器を持って近づいてきたウィリアムに、不思議そうにアーリーが尋ねた。
「非常時にはいい顔してた時の関係が生きるんだよ。実際生きただろ」
「……まあ、そうね」
 あまり構ってあげていないせいか、アーリーはどことなく元気がない。
「お人好し共の大半は、島に残ったしなぁ。あいつ等が居なかったらどうなってたかねぇ」
 パンを食べながらウィリアムが言い、アーリーは黙ってスープを飲んだ。
「……彼女さん、心配ね」
「ん? あ、いやだから、あいつは恋人でもなんでもねぇって」
「……元カノさん、心配ね」
 アーリーがそう言い直し、ウィリアムは苦笑する。
「友達だからな、心配は心配だが、あいつとも他の奴らとも、まぁまた会えるだろ」
 アーリーは妬いているのだろうが、それを指摘したら反発されてこじれそうだ。
 甘い言を吐いても、今はまだ受け入れないだろうということも解っている。
(ゆっくりと、氷解するのを待てばいいさ)
 そう思い、ウィリアムは話題を変える。
「アーリーは何がしたいよ? っと、ここではアニサだっけか?」
 頷き、アーリーは顔を上げてウィリアムを見詰めた。
「私はね、家族の幸せを求めてみようかなと」
「家族……?」
「弟の。もしかしたら妹もできるかもしれないわね」
 そして、小さくつぶやく。
「自分自身のことは、あの男次第……」
 彼女の目には暗い光がまだ残っていた。
 だけれど、ウィリアムに向ける顔には確かな愛情が表れていた。

「ありがとうございました。今後もご指導の程、何卒よろしくお願いいたします」
 ロスティン・マイカンは、魔術師を指揮する男爵に、深々と頭を下げた。
「魔法学校に、君のような有能な魔術師がいたとはな。期待しているぞ」
「はい! 必要なことがあれば俺の力の及ぶ限りは頑張りますので、何でも言ってください」
 ロスティンはこの男爵に師事し、魔術師として役立てることを探すことにした。
 そして夜は、知識のある大人――貴族に限らず、有識者達のところを巡り、教えを請う。
「えーと、今晩は語学の先生は夜勤で、地学の先生は空いてそうか……」
 相手の都合もあり、思うように学べてはいないが、将来のために頑張らねばと、ロスティンは仕事と勉強に真剣に勤しんでいた。
 共に箱船に乗ったミーザ・ルマンダは、魔法によるサポートだけではなく、乗組員の世話係として、沢山の仕事を任され、忙しなく動き回っている。
「っと、筋トレも欠かせないよな。時間をどう配分するのかも考えておかないと」
 スケジュール帳を見詰めて、うーんと軽く考えた後、パタンと閉じて歩き出す。
「さーてと、やるべきことは一杯あるし行きますか!」
 些細な事でも、悩んで立ち止まっている時間はもったいない。
 今まで、親の脛を齧って怠惰に生きてきた分は、才能だけでは補えない。
 今は立ち止まることなく、歩き続けて、取り戻し、未来に繋げていくだけだ……。

「なんでこの部屋、こんなに荷物が多いの」
 アーリー・オサードが不満げにそう漏らした。
「全部、必要なのです」
 その部屋……貴族で類まれなる魔法知識を持つシャンティア・グティスマーレに割り当てられた部屋は、書物や服などの荷物で溢れ、とても狭かった。
 個室ではなく、少人数の女性用の相部屋だ。
 外交的で働き者なミーザ・ルマンダは多方面にひっぱりだこということもあり、シャンティアには主にアーリーが付き添っている。
「アーリー……その、髪を結ぶの手伝ってください」
「ご自分でどうぞ」
 しかし、アーリーはメイドのように動いてはくれない。
 鏡を手に、シャンティアの後ろに回ってくれるだけだった。
 シャンティアは四苦八苦、自分の髪を結んで、頑張って服を自分で着て、食事もアーリーと一緒にだが、自分で取りに行くことが出来ていた。
 他の乗組員とは慣れず、ミーザやアーリーへの依存が高まってしまってはいるが、少しずつ、自分のことが自分で出来るようになってきている。
「アーリー分かりました。ミーザほどの手助けは望みません。ですが、メイド服だけは着ていただきます。ここで寝るのなら、あなたはわたくしのメイドですから」
 可愛い、とっても可愛いメイド服をシャンティアはアーリーに差し出した。
 アーリーに割り当てられた部屋は、ミーザ同様の二段ベッドが並ぶ大部屋だった。
 そこで過ごすことを望まなかったアーリーは、シャンティアの申し出もあり、彼女の部屋に布団を持ち込んで、休んでいる。
「彼もきっと喜ぶ、はずです」
 そう言って、ぐいぐいシャンティアは可愛いメイド服をアーリーに押し付ける。
「似合わないのよ、こういうのは……。彼って……そういう趣味のある知り合いなんて、いないし」
 そう言って、アーリーは目を背ける。
「そんなことはありません。慣れておいた方がいいですよ、お嫁に行く時に着こなすために」
「何言ってんのよ、馬鹿ね」
 少し赤くなり、アーリーはシャンティアを睨んだ。
 アーリーとミーザに、慕っている男性がいることをシャンティアは理解している。
 2人に可愛い服を着せて、お嫁に出すことがシャンティアの夢になっていた。自分自身の色恋はまだ理解できていないけれど。
「今日こそ、絶対着ていただきますからね。着ないとお部屋にいれませんよ」
「それだと、あなたが困るんじゃない?」
「う……はい。側にいてください」
 途端困り顔になって、アーリーを不安気に掴むシャンティア。1年前までは、メイドが訪れることさえ嫌い、ただ一人でいることだけを望んでいたのに。
 彼女の魔法の研究はこれまでのような自己満足のためだけではなく、箱船の今後に役立つ事へと範囲を広げていた。
 そんな、成長した新たな日常の姿を、両親への手紙としてシャンティアは日記に記していた。

 



川岸満里亜です。

ご参加ありがとうございました。
こちらが、マテオ・テーペを舞台とした物語の最後のリアクションとなります。
マテオ・テーペの世界に、キャラクターを送り出して下さった方々、最初から最後までご参加いただきました方、途中参加、全てではなくともシナリオにご参加いただきました方に、深くお礼申し上げます。

こちらの水中世界を舞台としたゲームは終了となりますが、世界の物語はまだ続きます。
何かの機会に、マテオ・テーペで生きる人々についても、描かせていただくことがあるかと思います。

皆様のおかげで、未来に希望が残りましたことに、感謝いたします。
ありがとうございました!

 

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