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◆未来の約束
 これが最後になってしまうかもしれないから、と言ったわけではないが、リック・ソリアーノはイリス・リーネルトを自宅に招待した。
 恋人の家にに行く──それも、貴族で家族もいる──というので、イリスは念入りに身だしなみを確認し、緊張の面持ちでリックについていった。
 リックの家は、思っていたよりもこじんまりとしていた。もちろん庶民よりは大きな家だが、貴族でなくてもちょっとした富裕層なら買えそうな家だ。
 帰宅を告げながらリビングへ向かうリックに続き、そっと顔を出すと母親と思われる女性があたたかな笑顔でイリスを迎えた。
「ようこそ。女の子のお客様はおもてなしのしがいがあるわ!」
 ふくよかな体形の明るい人だ。
「は、はじめまして。イリス・リーネルトと申します。今日はお招きいただき……」
「堅苦しい挨拶なんていいのよ。今、紅茶とお菓子を用意するわ。リック、手伝って」
「わ、わたしも手伝いますっ」
「そう? じゃあ、お願いするわね」
 夫人はとても気さくさにイリスに接した。
 そのおかげで、イリスの緊張もすぐにほぐれていった。
「あの……もしよかったらなんですけど、今度刺繍を教えていただけますか?」
 しどろもどろに何とか伝えたイリスに、夫人はにっこりして頷く。
「ええ、いいわよ。あなたは手先が器用そうだから、きっとすぐに上達するわ」
 このままでは母がイリスを放してくれないと思ったか、リックは紅茶とお菓子を盆に乗せると、イリスを呼んで自室に行こうと誘った。
 息子のヤキモチにくすくす笑いながら、夫人は二人を見送った。

「ごめんね、びっくりしたでしょ?」
 リックは部屋に入るなり、イリスに謝った。
「ううん。やさしく迎えてくれてホッとした」
 それならいいけど、とリックはテーブルに運んできたものを並べる。
 リックの部屋はすっきりしていた。飾りといえば壁に掛けてある数点の絵だ。
 他は壁際にある本棚には魔法関連の本がある。
 扉の向こうが寝室なのだろう。
 紅茶を飲みながら、イリスはリックに将来の夢について尋ねた。
「……もっときちんと魔法の勉強をしようと思ってるよ。それで、誰かの役に立てたらいいな。だって、箱船が行っても、まだ僕達はここで生きていかなきゃならないんだから」
 出航時に自分達に降りかかる試練への不安はあっても、リックは地上を諦めてはいなかった。
「イリスは何かある?」
「わたしも、あるよ。叶うかわからないけど……リックの……」
 話しているうちに恥ずかしくなってしまったのかイリスは顔を赤くして俯いてしまい、肝心の部分がリックには聞こえない。
 リックは身を乗り出して聞き返した。
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一度聞かせて」
「リックのお嫁さんになれたらいいな……」
 ぽかんとするリックにイリスは慌てて手を振る。
「い、いいの、忘れてっ」
「え、えっと……あのね」
 リックも頬をほんのり染めて、言いたいことを必死にまとめる。
 ふと、断られるのではないかと、不安がイリスを襲う。
 リックは気さくだが貴族の子だ。恋人は良くても結婚相手となると別かもしれない。
 そう思うと、イリスは急にみじめな気持ちになってしまった。
 表情を暗くした彼女に、リックは強く呼びかける。
「あのね、そのセリフ、いつか僕から言おうと思ってたんだ。僕がもっとちゃんと、イリスを支えて生きていけるだけの力を持ったら……って」
 先に言われちゃった、と苦笑するリック。
 イリスの胸でリックの言葉が反響し、沈みかけていた気持ちをあたたかくさせていく。
 そのあたたかさは、涙となって表にあらわれた。
「わたしも、リックを支えたい」
「うん、一緒にがんばっていこう」
 リックの指先が、イリスの涙をそっとすくった。


◆何も変わらない
 ヴァネッサ・バーネットが町でその噂を聞いたのは、仕事の合間に市場を散歩していた時だった。
 たまたま立ち寄った野菜を売る露店の主人からその話題は出た。
「そういやぁ、ヴァネッサ先生はあの侍女さん……ああ、姫さんだっけか、あの人とはけっこう親しくしてたんだったよな? 何て言うか、同情するよ」
 主人はやるせなさそうにヴァネッサを見る。
 ベルティルデは市場に買い物に出てくることもあり、港町の人達とはそれなりに親しくしていただけに、彼らの思いは複雑だった。
 ヴァネッサにもその気持ちはわかるけれど、彼女の思いは別のところにある。
「まぁ、多少は驚いたけど、それでも何も変わりゃしないよ。あたし達の間柄は、きっとね」
 だから、朗らかに笑ってこう言えた。
 目を丸くする主人を見て、さらに笑みが浮かぶ。
「結局さ、あたしの中でベルティルデはベルティルデなんだよ。姫様である以上にさ」
 もうじき彼女とは長い別れがやって来るが、それでもお互いに得た共感はなくならない。
 ヴァネッサの脳裏に、ベルティルデに贈ったスイートアリッサムと、共に見上げた虹がよみがえる。
 生きてきた世界が違っても、自分達はできることを懸命に探して務めてきた。
「何だか、俺が思ってた以上にあの子と深いつながりができてたんだな」
「ふふっ。あんたも今まで通りに話しかけてみたらどうだい? 案外、簡単に解決することかもしれないよ」
「なるほど……確かに、あの子はあの子だな。嘘なんかつけなさそうな、正直な子だ。逆に俺達に申し訳なく思って遠慮してるかもな……よし、ここは年上の俺があたたかく声かけてやるか!」
「その調子だ」
 きっとこの主人の言う通りなのだろう。
 一国の姫ともなれば、こちらには想像もつかないような重圧を裏で抱えていたに違いない。
(それでもあたしは彼女と親密にありたいと思った。姫だろうが何だろうが、そのことが、あの日の『共感』と『想い』に──二人の関係性に、作用を及ぼすとは思えない)
 ベルティルデも同じ思いのはずだ、とヴァネッサは信じている。
 ……と、噂をすれば何とやらか、ベルティルデが少数の護衛と共に姿を見せた。もう一人で出歩くことはできないようだ。そのせいか、どこか居心地が悪そうだ。
 市場の人達も少し戸惑う中、ヴァネッサは一歩前に出て名前を呼び手を振った。
 不安そうにしていたベルティルデの顔に一瞬にして笑みが広がり、小走りにやって来る。
 その姿は、これまでと何ら変わりない。
 ほら、言った通りだろ、とヴァネッサは目で主人に語り掛けると、次にはベルティルデに声をかけた。
「買い物かい?」
「ええ。ヴァネッサさんは休憩ですか?」
「当たり。一緒してもいいかい?」
「もちろんです」
 二人の間に主人が割って入る。
「ベルティルデちゃん、今日のオススメはカブだよ。一つどうだい?」
 これまでと変わらない呼びかけに、ベルティルデは安心したように売り場に近づいた。
 それを見た主人は、まいったというようにヴァネッサに目を向ける。
 ヴァネッサは自信を持って笑うだけだ。
 二人のやり取りに気づいたベルティルデが不思議そうな顔をした。
「いやなに、この先生はたいしたもんだと感心しただけさ」
 主人の言葉の理由はベルティルデにはわからなかったが、ただ一つわかることがある。
「ヴァネッサさんは、自慢のお友達なんです」
 そこには身分の壁など何もない、ただ友達を思う純粋な笑顔があるだけだった。


◆折り鶴
 箱船出航日を間近に控えたその日、トモシ・ファーロは集会所で鶴を折っていた。一つ一つ丁寧に。
 この地で亡くなった人の代わりに地上へ行ってもらうために、あるいは箱船の乗組員の無事を願って。
 できた折り鶴は、箱船に持っていくつもりだ。
「誰かいると思ったら……何してるの?」
 部屋の入口から顔を覗かせたのは、リルダ・サラインだった。
 彼女は部屋に入ってくると、テーブルに並べられている折り鶴を一つ摘み上げた。
「これは……見たことあるような……」
「折り鶴だよ。七夕の時に飾りで使ったやつなんだけど、いくつも重ねて、長寿や平和などの祈りをこめて飾ったりもするんだ」
「異国の風習ね」
「遥か東のね。これ、本来は千羽折るんだけどさ、さすがに時間も箱船のスペースもないから、気持ちだけ」
「千羽も? そう……それは、大変な祈りがこもってるわね」
 リルダはそっと鶴をテーブルに戻した。
 何やら気安く触れてはいけないような気になったのだ。
 そんな彼女に、トモシはたった今できた折り鶴を差し出す。
「もうすぐ、出航だね。どうなるかわからないから……ささやかなお守り代わりに」
「ありがとう。大事に持っておくわ」
 リルダは感謝をこめて鶴を見つめた後、上着のポケットにしっかり収めた。
 当初の計画より生き残る確率が上がったとはいえ、100%無事という約束はない。
 意識しないようにしていた怖さを、鶴が静めてくれるように願った。
「もちろん俺も、何かあったらその鶴みたいにすぐ、リルダさんのところに飛んでいくから。……あ、何もなくても呼んでくれれば行くよ!」
 にっこりと笑顔で言われたリルダは、思わず吹き出した。
「何か変なこと言ったかな……?」
「ふふふっ、違うの、そうじゃなくて。これから怖いことが起こるかもしれないって時に、呑気な笑顔で言うから」
「呑気……」
「わ、悪い意味じゃないのよ」
「いえ、気にしてない……よ」
「え、えーと、私にも鶴の折り方教えてくれる?」
 焦るリルダのかなり無理矢理な話題転換にトモシは少しだけ反撃成功を喜び、鶴の折り方を教えることにした。
 呑気者に見られることはよくあるので、気にしていないのは本当だ。
 トモシに教えられながら悪戦苦闘するリルダに、一つお願いを口にした。
「お願いがあるんだけど……、できれば箱船出発の時は一緒にいてもいいかな? リルダさんの目の前なら、無様にひっくり返ることは避けられると思うから……」
 手を止めたリルダは顔をあげて苦笑する。
「辛くなったら、倒れる前に座り込んでいいのよ」
「そこは……意地というか」
「男の人って、変なところで見栄っ張りよね」
 くすくす笑うリルダ。
「それなら、私が先にひっくり返ったらちゃんと支えてね」
 これはお守りよ、とリルダはやや不格好な折り鶴をトモシの手のひらに乗せた。


◆どうしようもないアホなお前へ
 風魔法を極めれば、天国にいる皆の声も聞けるだろうか──

 命がけで戦った洞窟は、分かれ道のところで完全にふさがっていた。
「ここまでか……」
 水の神殿の倉庫にある通気口から侵入したヴォルク・ガムザトハノフは、仕方がないとため息をついてこれ以上進むことを諦めた。
 そして、目を閉じて、いけすかない野郎の顔を思い出す。
「アホレイザ。最後までアホはアホだったな。もう治ることはありません。残念でした。あの世で悔しさに悶えるといい」
 辛辣な言葉のわりに静かに話すヴォルクの周囲には、風が揺れている。
 立ちふさがる岩は、その向こうの道へ風を送る隙間さえない。
 ヴォルクは、背に鳳凰の刺繍をされた派手な上着を脱ぐと、岩の前に置いた。
 今日のために特別に気合を入れて引っ張り出した一着だ。
「これ着て、少しはダサいの卒業しろ。あと、これもくれてやる。一番良い出来のものだ」
 と、上着の横に木彫りの狼像が添えられた。これは風魔法の修行の一つとして、風の刃で彫ったものだった。
「……俺は、大人になるぞ。お前なんかすぐに追い抜くからな。次の勝負は一瞬で俺の勝ちだ。──うん、結局アホレイザには悔しがる未来しかないわけだ。それが嫌なら……」
 魂だけでも出てこいよ、と祈るように呟かれた声を聞くのは無粋な岩のみ。
 そのことが、無性に腹立たしい。
 どうしてあの男はここにいないのか。ヴォルクが姉と慕う彼女の傍にいないのか。
「もしかして……迷子か?」
 ぐるぐるし始めたヴォルクの脳みそが、一つの可能性に行き当たる。
 たとえ魂だけになっていても、もしあの姉の傍に行っていたなら彼女はきっと何かを感じているはずだ。
「ダセェ……ダサいのは服装だけじゃなかったのか……」
 しょうがねぇな、とヴォルクはもっと強く岩の向こうに念じた。
 風の揺れがいっそう細かくなる。
「迷子のアホレイザとして語り継がれたくなかったら、とっとと戻ってこいよ。そうしたら……帰還祝いの一つでも開いてやる」
 はたしてレイザに届いたかどうか、ヴォルクには知る術もないがひとまずは届いたとして区切りとした。
 ヴォルクはしばらく佇んだ後、魔法の発動を止めた。
「……それじゃあな」
 一度だけ名残惜しそうに岩を撫でてから背を向け、振り返ることなく立ち去った。


◆遠いあの日
 その街は、緑豊かな山間にあるありふれた街だった。
 そこに、代々薬師を生業とする家があった。
 リベル・オウスの家だ。
 彼が覚えている父は、寡黙で仕事一筋な男だった。
 一日のほとんどを部屋にこもって調薬に費やし、たまに出かける時は薬のための素材集めだったり、街で薬を売ったり誰かに分けたり……まだ子供だったリベルの目には、つまらない大人に見えていた。
 しかし、オウス家に子供はリベル一人。子供ながらに彼は、将来は自分も父のように薬師の道を歩むのだろうと思い──それが心底、嫌だった。
(薬師なんて、地味で面倒くさくてつまらない。それよりも、魔術師だ。魔術師になって、活躍するんだ)
 リベル少年は、そんな夢を持っていた。
 そして無邪気な少年は、ある日それを父に告げた。
 将来について聞かれた日だった。
 父は、初めて見るくらいに怒り、猛反対した。
 リベル少年はその怒りのすさまじさにただ震えたが、怖かったことよりも父が自分の夢を応援してくれなかったことがショックだった。
 しばらくはそのことで落ち込んでいたが、やがて反発心がむくむくと頭をもたげてきた。
(親父は、俺のことを何一つわかってない)
 リベル少年は、二度と戻らない覚悟で家を出た──。

「……」
 朝の光にまぶたを開けたリベルは、まだぼんやりする視界の中で夢の余韻にひたっていた。
(今ならわかる。あんな無謀な挑戦、反対されて当然だ)
 けれど、当時のリベルはあまりに幼く、そして根拠のない自信に満ちていた。
 バカだった。
 ほろ苦い目覚めを抱えたまま身支度をしている時、リベルはふと彼女に会いたくなった。
 棚からレシピ帳を引っ張り出して開き、彼女のために作りたいものを拾っていった。

 

☆  ☆  ☆


 領主の館にベルティルデ・バイエルを訪ねたリベルは、いつもの薬を手渡すと「ちょっと飲んでほしいものがある」と、何かがつまった小さな袋を見せた。
 それなら、とベルティルデはリベルを庭へ案内した。
 リベルに頼まれた通りお湯を用意したベルティルデは、その飲み物ができあがるのをじっと待っている。
 何ができるのかと、その目には好奇心があった。
 頃合いをはかり、リベルはティーポットの中身をカップに注いだ。
 紅茶よりも、もっと純粋な茶色の液体。何とも言えない落ち着いた香りがした。
 味見をしたリベルは少し首を傾げた後、ベルティルデの分も注いだ。
「まぁ、とりあえずどうぞ」
「いただきます」
 リベルが首を傾げた理由が気にならなかったわけではないが、彼が害のあるものを出すわけがないとわかっているので、口にすることにためらいはない。
「不思議な味……。でも、この味も香りも異国の風情を感じます」
「そうか。俺は正直、まずくはねぇが、おかわりしたいほど美味くもねぇと思ったな」
 本当に正直な感想に、ベルティルデはくすくす笑った。
「本当は、もっといい味を出すはずなんだ。これは、俺のお袋のオリジナルブレンドでな」
「お母様の……」
「実は、初めて作ってみた。本来は、こんなの作る趣味はないんだが……昔の夢を見て、ちょっとな」
「どんな夢だったか聞いても?」
 リベルは頷き、まだ覚えている夢の内容をぽつぽつと話した。
 ベルティルデは短い相槌を打つのみで、静かに耳を傾けていた。
 すべて聞き終えた後、彼女はただ一言「そうでしたか」とだけ言った。
 喧嘩別れ同然に故郷を飛び出したリベルの今の気持ちを聞くことなど、とてもできなかったからだ。
「ベルティルデの親はどんな人だったんだ?」
「そうですね……」
 言ったきり、黙り込んでしまうベルティルデ。
 もしかして聞いてはいけないことだったかと、リベルは内心で焦った。
「すみません、よく覚えていないんです。わたくしは幼い頃から両親とは離れて暮らしていましたので。会わないまま、ここへ来ることになりましたし」
 リベルは絶句した。
 ベルティルデは、彼女自身の将来について何一つ話し合う時間を持てなかったということだ。
「それでよかったのか?」
「わたくしは、そうあるものなのだと教えられてきました。継承者としての使命を果たすための命なのだと」
 そこにベルティルデの意志は存在しないと知ったリベルは、眉をひそめた。
 そんな彼に微笑みかけて、彼女は続ける。
「ですが、そんなお人形だったからこそ、わたくしはここで変わることができました。箱船計画も、当初とは違うものになりました。できるだけ多くの方が生き残れるように」
 それは、ここで町の人達と交流した末に彼女が望んだことだった。
「変われた……か」
 リベルは皮肉気に口を曲げる。
 果たして自分はどうだろうか。
 家業から逃げたおかげで生き永らえ、金稼ぎの一つとしてしか見なしていなかった薬師の知識と技で、多少なりとも誰かの助けになっている。
 あまつさえ、こうして他人に茶を振る舞うことすらできているのだ。
 それもこれもすべて……。
「……俺はこれから、どうやってこのでかい借りを返せばいいんだろうな」
 やるせない思いだけが胸にある。
「ただひたすら誠実に。……わたくしを変えてくださった、この町の皆さんの姿です」
 リベルはもう一度、夢の中の父を思い出し、それから母の味にはほど遠い茶を飲み干した。


◆お別れの日
 居酒屋兼飯処『真砂』でささやかな──結局は常連客による大騒ぎの宴となった──お別れ会から数日後、ついにその日は来てしまった。
 真砂のある区域は箱船出航後には水没してしまう。
 そのため、店は閉めるしかない。
 女将の岩神あづまは、落ち着いたらまた店を開くつもりでいるので閉店は一時的なものであるのだが、この地にやって来てから始めた店にはたくさんの思い出ができてしまっていた。
 あづまはその思い出の一つ一つを思い返しながら、引っ越し準備が終わった店を見上げていた。
「女将さん、そろそろ……」
 手伝いに来ていたアンセル・アリンガムが気遣うように声をかける。
 あづまは一呼吸の後にゆっくりと頷いた。
「すみません、では……お願いします」
 アンセルはあづまの故郷の文字で『真砂』と書かれた看板に手を伸ばした。
 カタン、と小さな木の音を立てて看板が外されたとたん、あづまはたまらなくなってうつむき、口元を手で覆った。
 心配そうにしているアンセルに、あづまは思いを口にする。
「この国にやって来て、このお店を始めて無我夢中で働いて……いつの間にか、お客様の笑顔を見るのが生き甲斐になっていました」
「そうだな。そんなあなたの働きぶりに私達は仕事の疲れを癒されてきた」
 差し出された看板を受け取ったあづまは、愛しそうに抱きしめる。その肩が小さく震えていた。
「本音を言えば、このお店とお別れしたくありません。でも、仕方がないことなんですよね……」
「女将さん……」
 呼んだものの、アンセルには慰めの言葉が見つからない。
 そんな彼の様子を察したあづまは、こぼれそうな涙を拭って顔をあげた。
「自分では、もっとしっかりしているつもりだったのですが……いけませんね、いざとなると涙が止まりません」
 無理矢理な笑みを浮かべたあづまの目から、とうとう涙がこぼれてしまった。
 みっともない顔を見せまいと看板で顔を隠してうつむくが、どうしようもなく声がもれた。
 結局、どう声をかけていいのかわからないままだったアンセルは、震えるあづまの肩をそっと撫でてからゆるく抱きしめた。
「もうしばらく、別れを惜しんでおこうか。──こういう時、我慢はしなくていい」
 それからしばらく、あづまは涙があふれるに任せた。
 我慢をやめて心のままになると、だんだんと思い出が胸の奥に落ち着いていく。
 辛い時のことさえ、やさしく切ない記憶になっていく。
 やがて嵐はやみ、凪いだ時間がやって来た。
 そうなると、いい年してさんざん泣いてしまったことが恥ずかしくなり、今度は違う意味で顔を上げられなくなってしまった。
「あの……もう、大丈夫です。すみません、みっともないところを……」
 それでも、これ以上は心配をかけさせまいと何とか告げる。
 アンセルの腕が離れていくが、彼はその場を動こうとしなかった。
「もう少し休んでいこう。今歩き回ると、常連客から女将さんを泣かせたと恨まれてしまう」
 冗談めかして言うアンセルに、看板で顔を隠したままあづまは小さく笑った。


◆その想いの色は
「できれば、あんまり人が来ないところで」
 領主の館へルース・ツィーグラーを訪ねてきたマティアス・ リングホルムの発言を聞いたとたん、ルースは胡乱な目でマティアスを見上げた。
「な、何でそんな目で見るんだよっ。慣れないもんを披露する俺の身にもなってくれよ」
 恥ずかしいんだよ、と言外に訴えるマティアスに、ルースは疑いの眼差しはそのままに「こっちへどうぞ」と館の中へ案内した。
 通されたのは客間だ。主にルースが客人と対面する時に使われている。
「一応言っておくけど、この館には常に人がいるからね」
「ダンスのリベンジだって言わなかったっけ?」
「庭でいいと思ってたのよ」
「そんな丸見えのところはなぁ……」
「だからここにしたじゃない。さ、余計なものをどかすわよ」
 言うなりさっさと椅子を持ち上げて部屋の隅に寄せるルース。
 慌ててマティアスも手伝った。

 それなりの面積ができた部屋で、二人は寄り添ってワルツを踊る。
 曲は、ルースの鼻歌だ。
 作法に則って彼女にダンスを申し込んだ時からマティアスは緊張しっぱなしだったが、ルースの機嫌は良さそうだ。
 じっと見ていると目が合い、珍しく素直な笑みを見せた。
「やるじゃない。期待以上よ」
 その言葉に、力んでいた肩の力が抜けるのをマティアスは感じた。笑う余裕さえできる。
「船で旅立つ前に、絶対に姫さ……ルースを驚かせようって思ってやったんだよな!」
「ええ、本当に驚いたわ」
 鼻歌が再開し、しばらくしてワルツは終わりを迎えた。
「ありがとう。とても楽しかったわ」
「よかった。これで……俺はここでやり残したことはもうないかな? ルースはどうだ?」
「そうねぇ……。もう出発を待つばかりかしらね」
「あっさりしてんなぁ。姫さんやってた時に行きたくても行けなかったところとかないのか? もしあるなら、俺で良ければ付き合うぜ」
 親切な申し出に、ルースは申し訳なさそうにする。
「本当に、何もないのよ。考えたこともなかったというか……。ごめんなさいね、せっかく言ってくれたのに」
「謝ることなんてねぇよ。でも、そうか……なら、どうしようか」
 ルースに会う目的は果たしてしまった。かと言って、ここで別れるのももったいない気がする。
「お茶でも淹れるわ。ゆっくりしましょう」
 部屋を元に戻した後、二人は引き続き客間で紅茶と焼き菓子で、のんびり過ごすことにした。
「相変わらず、うまいお菓子だ」
「箱船に乗ったら、もう食べられないわよ」
「そっか……そうだよな」
「マティアスは良かったの? これから、どこかに行く予定なんてないの?」
「特にねぇかな。ルースは?」
「私も特にないわね」
「そう。もし、朝まで一緒に過ごすような相手がいるなら遠慮するつもりでいた」
「朝まで……?」
 意味をはかりかねたルースだったが、直後、顔を真っ赤にした。
 そして、とっさに口から飛び出そうになった言葉を飲み込むと、わざとらしいくらいにふんぞり返ってマティアスを見据える。
「も、もしも、いると言ったら?」
「そりゃあ……」
 先の発言は何気なく口にしたものだったのに、改めて聞かれたマティアスの胸には、もやもやと仄暗い何かが立ち込めてきていた。
「……私だって、そういう相手がいるなら別の男性と二人きりで会ったりしないわ」
 そっぽを向いて不貞腐れたようにルースは言った。
「それって……」
 二人きりで会うのを許すくらいには、マティアスを思っているということだろうか。
「ああもうっ、深く考えなくていいのっ」
 体ごと向きを変えてしまったルースの耳は、見事なピンク色に染まっていた。


●恋愛相談
「病室ってどうにも狭くて気が滅入るよな。……って訳で、ちょっと庭まで俺とデートしないか?」
 ラトヴィッジ・オールウィンは軽い口調でそう言って、肩を貸してバート・カスタルを庭園まで連れ出した。
 そして、ベンチに並んで座ると、彼の顔をじっと眺める。
「……なんだよ」
 らしくなく、バートはどこか上の空で、明らかに元気がなかった。
(バートさんが落ちこんでいる理由、俺には想像しかできないけれど……)
 ラトヴィッジは突然、すくっと立ち上がると、バートの向かって語りかける。
「バート・カスタル! まずは帰ってきてくれて、ありがとう」
 怪訝そうな顔で、バートはラトヴィッジを見上げている。
「バートさんが帰ってきてくれて、俺は本当に嬉しい。こうしてまた話が出来る事が、本当に嬉しいんだ」
「……」
「バートさんがどんなに頑張ったか、無茶を重ねたか……俺には想像しかできないけど……これだけは言える」
 強くしっかりした目、口調でラトヴィッジは語り続ける。
「バートさんは力を尽くした。そして生きて帰ってきてくれた!
 その事を心から嬉しく思ってる奴がここにも一人居るって事だけ……知っていて欲しい」
 以上!」
 それだけ言うと、ラトヴィッジはすとんと彼の隣に座りなおした。
「頼りないかもしれないけど、話を聞くくらいは出来るし。思いを共有する事は出来るから」
 そして、ぼそりとそう付け足した。
「……ありがとう、ラト」
 バートはラトヴィッジに弱い笑みを見せて、どこか遠くを見ながら話しだした。
「騎士として、生き残った人々にこの身全てを捧げて、護っていきたいんだが……俺はまた生き残り、犠牲は出た。
 寝てばっかだと、アイツの凄さとか、俺には誰かを守る力、まだ残ってるんだろうかとか、考えちまってな」
 それから。手紙でラトヴィッジに相談していたことを、ぽつりと漏らした。
 今の、もしかしたらこれからの俺は仕事さえ、満足に出来ないと。
「バートさんは真面目で優し過ぎるんだ」
「そうかな」
 手を組み、ラトヴィッジは頷く。
「好意を持ってても仕事が第一だから相手を一番に考えられない、だっけ? 何を今更ってカンジだぜ」
 2人は互いに恋愛の相談を、軽く持ちかけたことがあった。
 バートは、互いに好意を持っていても、仕事を一番に考えたい自分は、相手に寂しい思いをさせてしまうだろうと。
 好きでいてもらえる自信はなかった。
「バートさんの事を好きになった人は、そんなの分かってるし覚悟済みで、そんなバートさんだから、好きで寄り添いたいんだと思う」
 俺がそうだし……変な意味ではなく!」
 付け加えられた言葉に、バートの顔に軽い笑みが浮かぶ。
「だから、バートさんがその人に傍にいて欲しいと思うのならば、迷わないでいいと思う。俺は迷わなかった!」
 そうドヤ顔でラトヴィッジが言うと、バートは軽く吹き出して、声を上げて笑った。
「お前は仕事より彼女をとった……そして、彼女を護ることを、自らの仕事にもした。
 彼女は――サーナちゃんは、すげぇ幸せだろうなぁ」
 そんな幸せを相手に与えられない自分とも、結ばれたいと思ってくれる娘はいるだろうか。
 そう語るバートの顔はラトヴィッジが訪れた時よりもずっと、明るくなっていた。


●お祝い
 私用で水の神殿に立ち寄った際、マーガレット・ヘイルシャムは、館で焼いてもらったパンケーキを持ってサーナ・シフレアンの部屋を訪ねた。
 彼女の私室のソファーに向かい合って座ると、すぐに使用人が温かな紅茶を2人に出してくれた。
「今日はどういったご用でしょうか」
 サーナは少し緊張した面持ちだった。初対面の時の影響だろうか、彼女はマーガレットを厳しい人だと思っているようだ。
「お祝いにきたのですよ、正式に神殿に復帰できてよかったですね。この時勢ですし、大したものは用意できませんでしたが」
 使用人が預けてあったパンケーキを、2人の前に出してくれた。
 2人は紅茶を一口飲み、パンケーキを食べながら話をしていく。
「見ている人はちゃんと見ているということ。功績が認められたということですからそれは喜ばしいことです」
「……はい」
「しかし、ここで安心してはいけませんよ。あなたはまだ未熟なところがありますから、これからも勉強はおろそかにしてはいけません」
 マーガレットの言葉に、サーナは素直に頷く。
「閉じ込められていた2年分、取り戻さなければなりません」
「そうですね。私が教えられることならば、遠慮なく聞いてくださいね。……狼に関する講義はもう不要かもしれませんが」
 マーガレットがそう言うと、サーナはカッと赤くなった。
「あ、あのそのこと、忘れてください」
 何か進展があったのだなと、マーガレットは微笑ましく思う。
「実は、何冊かこれからのサーナさんに必要になりそうな本を見繕ってきましたよ」
 そして、マーガレットはテーブルの上に、持ってきた本を並べる。
『淑女の振るまい』
『ここ一番で失敗しないための服選び』
 それから……。
『初めての赤ちゃん』
「!?」
「これはさすがに少し早かったですかね?」
「は、早いというか……」
 サーナは赤くなって慌てている。
「そうですか。でも、ま、そのうち必要になるでしょうから、持っておくといいですよ」
 そう言って、マーガレットは本を重ねてサーナへの方へ押した。
「あと、一つお願いがあるのですが……実は私今小説を書いているのですけど、サーナさんを登場人物のモデルにだしてもいいですよね。完成したらお見せしますから」
「え? どんなお話しですか? 知られてはいけないこと、あるので……」
「そういった部分には触れません。簡単に言うと、亡国のお姫様とその騎士になる青年のラブストーリーです」
 そして、今なら書けそうな気がすると、マーガレットは微笑んだ。
「書かないでほしいことは、書かないでくれますか」
「もちろんです」
「……本を書くために、私の話、聞いてくれますか?」
「ええ、それも勿論、喜んで」
 そう答えると、サーナはほっとした表情になり、こくりと頷いた。
「では、あまり長居をするのもあれですし、今日はこの辺で」
「あはい、次は、もし都合がつくようでしたら、勉強を教えてください。算術とか、少し苦手で」
「分かりました。スケジュール調整しておきますね」
 そう言ってマーガレットは立ち上がり、ドアへと向かい……。
「あ、そうそう」
 退室するまえに振り向いた。
「二人の式には呼んでくださいね。這ってでも出ますから」
「ま、まだまだ先ですよ……っ」
 赤くなり、上目づかいでサーナはマーガレットを睨んできた。
 可愛いなぁと思う。彼女の騎士が彼女にまだ手を出していないとしたら……とても大切に、愛されているのだろう。
「ふふ、それではまた後日」
 笑みを残し、マーガレットは帰っていく。
 新たな物語、過去には上手く描くことが出来なかった愛の物語を思い浮かべながら。


●真っ白な部屋の中で
 新たな居住区に設けられた医療施設にて、アウロラ・メルクリアスは未だ自力で起き上がる事も出来ずにいた。
 こんな風に意識を失って、病院に運び込まれたのは――洪水の時以来だ。
 横になったまま、アウロラは自らの足を見つめる。
 生身の足ではない。人の足の姿ではない、義足、だ。
(あの、洪水の日――。そう、私は両親と一緒にこの地に立ち寄った)
 ただの旅行だった。
 港から出る船に、両親と一緒に乗る予定だった。
(初めての家族での遠出で、ワクワクしていたんだよね)
 でも、それは起きてしまった。
 あの洪水は、世界から、人々から、そしてアウロラからも様々なものを奪っていった。
 水の中に、連れていかれてしまった。
 突然、港町が騒がしくなり、女性と子供優先で大型船に乗せるという話になったらしくて。
 まだ子供だったアウロラは突然手を引かれて、船へと誘われて、両親と逸れてしまった。
 混乱している船着き場から飛び出して、アウロラは両親を探した。
 人の波に逆らい、町に出て、必死に両親の名を呼び続けた。
 何が起ろうとしているのか、何もわからず、ただ、大切な両親を探し求めていた。
 そして、人々の叫び声が響いた。
 アウロラが振り返るより早く、彼女は強い衝撃を受けて――。
 気付けば、病院のベッドの上にいた。
 痛み、だけではなく、感覚が変だと思ったら、足もなくなっていた。
 驚いて、混乱して、気が狂ったかのように、パニックを起こしていた彼女だけれど。
 町の落ち着きと共に、彼女は、町、そして自分の身に何か起きたのか、理解していった。
 両親の事を訪ねても、誰も知らないという。
 国の殆どが、沈んでしまったという。
(これからどうすればいいんだろうって、知らない土地で、両親もいなくなって、足もなくなって……これからどうなるの? って、そればかり考えてた)
 歩くことも出来ず、頼れる人も、帰る場所もなく、1人ぼっちで。
(でも、この町の人たちはそんな私を受け入れてくれた)
 義足で、歩けるようになるまでは、それなりに時間がかかった。
 何も出来ない、何のつながりもなく、何か出来るようになるかさえ分からない自分に、手を貸して、治療をし、貴重な食事を分けてくれた人がいる。
「恩を返したくて畑の手伝いを申し出たら畑を丸々貸してくれたりもしたっけ」
 アウロラの顔に、淡い笑みが浮かんだ。
「そんなこの地の人たちが好きで、みんなを守りたくて……」
 それで、彼女は火山のこと、人手が足りないと知って、立候補した。
「私、みんなのこと、守る手伝いできたかな……?」
 1人、一緒に戻ることが出来なかった人がいた。
 詳しくは知らされていないけれど、その人物は最初から、戻る予定がなかったのだという。
 もう1人、共に残る予定だった人もいたけれど、彼女の命は助かり、意識を取り戻したという話を聞いていた。
 だから、『予定』より、火山に向かったメンバーの多くが助かった。
 よく頑張ったと誰もが言ってくれる。
 ありがとうと、感謝の言葉をくれる。
 皆を守る手伝いができたことに、間違いはないのだけれど……。
 何故か、涙が出そうになる。

 大丈夫、体力と一緒に、元気はきっと戻ってくる。
 生きていれば、命があれば、私も、皆も――皆が生きる為に、できることは必ずあるのだから。


●あなたと居る幸せ(後編)
「後片付けくらい、私やるわよ」
「いやいいって、弟たちも後で食うし」
 クロイツ・シンの家で、夕食を終えた後。
 クロイツはカヤナ・ケイリーに、リビングのソファーで待っているように言い、使った皿だけ片付けて、お茶を淹れていく。
 この世界には季節もなく、どこか遠くに出かけることもできず、毎日が同じで、時間流れも同じに感じるけれど。
(同じに見えても違うし。こういう状況じゃなかったら、カヤナを好きになる機会を得られなかったかもしんねぇし……)
 そう、考えたら。
 茶の入ったカップをカヤナに差し出して、穏やかに笑みをたたえながら言う。
「好きだって改めて思うぜ」
「え、う、うん。大丈夫、解ってる」
 頷いて、クロイツは彼女の隣に座った。
 想いを伝えることが、迷惑や負担になるならば嫌だが、ある日、本当に突然に、水難事故で死んだ両親のことや、今の状況的にも、伝えられるうちに伝えておきたいと思った。
「両親が死んだ時、さ」
 当時のことを思い浮かべながら、寂しげにクロイツは語る。
「弟共はまだガキで、随分泣いた。俺は、泣いていられなかった」
 弟たちを養っていけるほど、大人ではなく。
 この港町の人々、周り近所の人々が、支え、援助してくれたから、兄弟離ればなれになることもなく一緒に何とか暮らしてこれた。
 それも、洪水で、助けてくれた人の中にも行方不明は出た。
 ありがとうは、あの人たちにもう2度と言えない――。
 伝えられる時に伝えなかったら、後悔する。
「カヤナ」
「ん?」
「触れて、いいか?」
「え、いけなくないわよ、別に」
 少し緊張した面持ちで答える彼女に、クロイツは手を伸ばして、彼女の手を握りしめた。
 恥ずかしげに微笑む彼女の顔に、喜びの感情が表れている。
 クロイツはもう片方の手を、カヤナの背に回して、彼女を抱きしめた。
(生きていることを分かち合いてぇと思える、可愛い女)
 温かい。そして、柔らかくて、自分と同じように……生きている。
「今日は、ありがとう」
 カヤナもクロイツの背に腕を回し、緩く抱きしめた。
「こっちこそ」
 言って彼女を見つめると、カヤナは自然に目を閉じた。
 クロイツは彼女の唇に、そっと自分の唇を重ねて。
 優しく、彼女を抱き直す。
「礼よりも、言われたい言葉があるんだけど」
「何?」
「ほら、今日俺が何度か言った言葉」
「……可愛い?」
「ちげーよ」
「ふふっ、冗談。ええと……好き、だから。あなたと、長く一緒に居たい」
 少し迷いながら、彼女らしくなく少し不安を滲ませた声だった。
「俺も、末永くよろしくされてぇよ?」
 彼の言葉に頷き、抱き締めるカヤナの腕に力がこもる。
 クロイツは、カヤナの髪に頬をうずめて、目を閉じた。
「ずっと笑ってろとか言わねぇ。それは生きてるって言わねぇ。
 嬉しい時も悲しい時も楽しい時も苦しい時も――人として当たり前の感情全部込みで、何気ない日を一緒に過ごせれば、いい」
「プロポーズだと受け取るからね!? 離さないから覚悟してよね」
 軽快な、彼女の――幸せそうな声に頷いて。
 クロイツはカヤナを強く抱きしめる。
 互いの命と温もりに包まれ、目を閉じて、2人は幸せな時間を身体で感じあった。


●火の意思
 領主の館の一画で行われている魔力制御訓練に、囚人たちの監視を兼ね、ナイト・ゲイルは加わらせてもらうことになった。
 隅の席に座り、1人黙々と、黙々と課題をこなそうとするのだが……何も出来ずにいる。
「何でお前、訓練に加わってるんだよ」
「バカじゃね? 魔力ないんだろ」
 休み時間に囚人たちが近づいてきて、とことんナイトを馬鹿にする。
 というか、ナイトの指示のもと働いてきた彼等はもう囚人ではなく、ナイトの監視を受けながら、学生として魔法を学び、騎士団からの仕事を請け負う一般人となっていた。
「できるかできないかとかそんなもん知るか、ただやると決めて全力でやる。その後に結果が付いてくることもあるだろうさ」
 そうぶっきらぼうにナイトは言葉を続ける。
「その年になってようやく魔力を感じられるようになったとかか」
「まあ確かに今まで魔力を感じることはできなかったし、魔力を感じさせることもできなかった……と思う」
 ただ、最近火を身近に感じることがあって、だからもしかしてと思ったんだと、ナイトは元囚人の男達に話していく。
「それを確かめるために魔法を学んでいる、これが気のせいだと思ったら辞めるさ」
 1人、先ほどの課題をやってみようと試みる。
 容器の中にある紙に、それぞれの属性の力で、指定された影響を及ぼすというものなのだが、影響を及ぼすもなにも、ナイトには火をつけることが出来なかった。
「わははははは」
 真剣なナイトの側で、元囚人たちが笑っている。
「んー……まあ確かに、今まで剣ばかりだったからな。これ難しいな」
 ため息をつきながら、ナイトは元囚人たちが持つ容器に目を向ける。
 彼等は完璧ではないにしろ、課題をきちんとこなせていた。
「お前たちもよくできてるよな、普通に感心するわ、凄いよ」
「当たり前だ。俺達はすげぇんだよ。今頃気づいたか」
「大体俺らの方が長く生きてるし、お前の方が優れてんのは、剣の腕だけだってのに、偉そうにしやがって」
 褒められて嬉しかったのか、元囚人が上機嫌でナイトの肩をバシバシと叩く。
「コツ教えてやってもいいが、その代りいい仕事回せよ。出会いがありそうなのがいい」
「ああ、頼むよ。発動さえ出来るようになれば、仕事の合間に自分でコツコツ学んでいくから」
「よしいいか、これが魔法の炎だ」
 火属性の元囚人が、人差し指を立ててその上に炎を発生させてナイトに近づける。
「この火に意識を集中させてみろ、何か感じるか?」
「……んー、なんとなく……」
 じっと火を眺めて、ナイトは深く意識を集中させていく。
「よし、その感覚を自分の指に集めてだな……ん?」
 突然、元囚人の指から火が消えてなくなった。
「お、お前今何かしたか?」
「あ、俺が消した。レイザがやってたなと思って」
 平然とナイトが答えると、元囚人たちは目を見開いて驚く。
「ま、魔法が制限されたここで、俺の火消せるような奴、ここには誰もいねーよ!」
「そうなのか?」
「ちと俺の集中が途切れただけだろ、うん」
 そう納得させて、元囚人たちはそれぞれ席についた。
 次の授業が始まるが、やはりナイトは火をつけることができなかった。
 だけれどさっきの火を消したのは自分だという自覚はあった。
 及ぼしたのはほんの少しの効果だったけれど、体の中にあった何かが失われ、疲れを感じていたから。
 後に、教本を呼んで知る。
 火を消すのは高度な技であり、魔法で発生させている火ならば、相手の魔力を上回らなければ消すことができないと。
「なんか……在る気がするんだよな、レイザの力が」
 俺は俺の守るべきものを守る。
 それでいいな。
 心の中で、自分に……自分の中に在るものに語りかけた。


●確かなものに
 警備隊長のバート・カスタルは領主の館内の病室にいるとのことだった。
 徐々に元気になりつつあったピア・グレイアムは先に訪問の日を知らせておき、箱船が出航する直前に彼の病室を訪れた。
「こんにちは、バートさん」
 彼女が病室に入った時、彼はベッドから半身を起していた。
 手すりにつかまれば、何とか起き上がれるくらいまで回復しているとのことだ。
 ピアの方も万全ではなく、徐々に元気になりつつあるという状態で、まだ普通の生活ができるようにはなっていない。
「お身体の具合はどうですか?」
「今日はいつもより調子がいいみたいだ」
 と、彼はピアに笑みを向けてきた。……だけれど、その笑みはいつもの強くて、明るい笑みではなくて。
 どことなく影を感じてしまう。
「窓の側にいきませんか? ソファーもありますし」
 荷物をおろし、ピアはバートに手を伸ばした。
「ん、ありがとう」
 バートはピアの手を取り、ベッドから下りると、杖を手に彼女に支えられながら、窓際のソファーまで歩いた。
「……カッコ悪くてごめん」
 彼の言葉に、ピアは首を左右に振る。そんなことないです、と。
「ピアはもう大丈夫なのか?」
「はい、随分と良くなりました。バートさんは?」
「俺も、身体の方は少しずつだけど、良くなってる。良くなっているということは、壊れてないってことだから、大丈夫だ」
 と、彼はまた弱く笑った。
 やっぱり、元気が足りない、と、ピアは感じてしまう。
(大事な友人がいなくなってしまったから、でしょうか……)
 窓の外へ――火山の方へと、ピアは視線を向けた。
「あの日居た全員が、自分に出来る事を果たしたんだと、私は思います」
 ピアはそう呟き、バートは小さく頷いた。
「私達は、ずっと忘れないでいましょう」
 と、目を閉じ、火山に向けて彼女は祈った。
 ピアが目を開けると、バートは僅かに顔を曇らせながら、彼女の方を見ていた。
「ごめんな、無理させて」
「いいえ、私は自分の意思で行ったんです。バートさんが謝るのなら、私もバートさんに謝らなければならないです。ごめんなさい、こんなに無理させて」
 ピアがそう答えると、バートは苦笑した。
「何か変ですよね、謝るの。だから『ありがとう』です。私達は助け合って、帰ってきたのだから」
 謝罪じゃなくて、感謝し合いたいとピアは目で訴え、バートはしばらく彼女を見詰めた後、首を縦に振った。
「そうだ、私今日もお土産があるんですよ」
 言って、ピアは立ち上がると、ベッド脇から荷物を持ってきた。
「今日は、ケーキを焼いてきました……」
 彼女が焼いたケーキは、いつもより少し歪んでいて、シンプルだった。
 彼女に綺麗なケーキを焼けるだけの体力が戻っていないことが窺えた。
 少し不格好かもしれないけれど、これまで作ったどのケーキより、ずっとずっとずっと、力も想いも込められている。
「お誕生日、おめでとうございます」
 そして、はい、どうぞ、と。
 花を編んで作った、冠をバートに差し出した。
「ささやかで、今の私にはこれくらいしか出来なかったですけど……よかったら」
「ありがとう」
 バートはピアのケーキを見て、そして花の冠を受け取り、切なげに言った。
「俺からも君に何か贈りたいんだけれど、何がいいかな?」
「バートさんが元気になったら、展望台に行ったときのように、またどこかにお出かけして、このお返ししてくれませんか?」
 ピアが花冠を指しながら言うと、バートは戸惑いの表情を浮かべる。
「作り方なら教えます……ううん、花冠が欲しいんじゃなくって、バートさんと一緒にいられる時間があったら、私は嬉しいです」
「……」
 ピアは、バートの目を見て微笑んだ。
「生きているって、聞いてはいましたが、今日まで会えなくて……怖かったです」
 彼が生きて洞窟を出る瞬間を、ピアは見ていないから。
「今日、顔を見たら、すごくほっとして……」
 微笑んでいるのに、じわりと涙が浮かんでしまう。
「バートさんが元気になるまで……なった後も、また会いに来たい、傍にいたいって……」
 叶うのなら、恋人として隣にいたいけれど、無理は言えないことも解っている。
「恋愛する余裕、もしできたら、教えてくださいね。その時は立候補させてください……!」
 明るい笑顔を浮かべて、ピアは言った。
「あるとしたら……今くらいだよな」
 バートはピアを見詰めながら言った。
「復帰してからじゃ、君の願いを叶えてあげられない。両立できるほど器用じゃないんだ。だから、それまでの間に」
 確かなものに、できたら。
 バートがピアの手を掴んだ。
「君には俺が築く、家を、家庭を守る人になってもらえたら……嬉しい」
 言葉の意味を感じ取り、ピアは自分の手を握る彼の手に、もう一方の手を重ねた。
 頬に熱を感じながら、ピアが彼に微笑みかけると、彼の顔にも笑みが浮かんだ。
 ほっとしたような顔。とても嬉しそうな笑み――大好きな、バートの笑顔だった。

 それから二人は、互いの身体を労わりあいながら、ケーキを食べて。
 窓から降り注ぐ、人工太陽の光に目を細めながら景色を見て。
 マテオ・テーペのことを、世界のこと、未来のこと、互いの将来の夢を語り合った。


●待つ?
 新たな居住区にある病院で、メリッサ・ガードナーは療養生活を送っていた。
(大きいし男性用にサイズ調整してあるよね)
 ベッドの中で、今日も彼女は指輪を眺めていた。
(なんで私が持ってたの?)
 その指輪は、今は彼女の左手の親指に在った。
 指輪に嵌められた小さな赤い石を長く眺めていると、ぎゅっと心が締め付けられる感覚を受けた。
(なんで苦しくなるの?)
 何か、忘れている。自分は何か大切なことを忘れている……。
(思い出したい)
 他にも、他にも何かないだろうか。
 手すりにつかまって身体を起こして、彼女は届いた自分の荷物を探って――最近書いた日記帳と、箱の中に大切そうにしまわれていた何枚かの手紙を取り出した。

 10か月くらい前。
 マテオ・テーペに登れるかもしれないと、喜んでいる自分がいた。
『仕事ってなにかな。また一緒に笑えるかな。
 なんかソワソワして困ってる、こーゆーのもうないと思ってた』
「……そう、マテオ・テーペ登れたら、どうなってもいいかなって……」
 ページをめくり、次に目を止めたのは、赤の文字。
『今日気づいたこと。
 瞳の色がすごくキレイ、深い深い吸い込まれそうな赤』
 親指の石に目を向けると、心臓がドキンと跳ねた。
 日記には“彼”に惹かれていく言葉の数々があった。確かに自分の字なのに、記憶が今のメリッサの中になかった。
『難しい顔しないで、前みたいに笑って』
『来るかとか来るなとかそんなのばっかり、でも少しだけ笑ってくれた。髪切ったのも気づいてくれた』
 ページが進むにつれて、湧き上がってくるのは恐怖の感情。
 これ以上、思い出してはいけないと、心が体を止めようとしている。
 メリッサは首を左右に振る。
(記憶だけ、記憶だけでも返して……体が耐えられないというのなら、心はあとからでいいから)
 メリッサは心を封じ込めて、無心になって日記帳を読み続けた。
『試すってどういうこと? 私のことどう思ってるの? 遊ぶのに都合がいいアホ女?』
『マテオ・テーペ制覇! 最高に幸せな頂上だった!』
 その文字を見て、マテオ・テーペの上から見た景色……より先に、自分を迎えてくれた人の顔が、メリッサの脳裏に浮かんだ。
『もう死んでもいい、ウソでもかまわない。
 もっとずっとぎゅってされたい、離れたくない』
 下に移るほどの、強い筆跡で書かれた文字。
 彼の声と温もりが蘇ってくる。

「お前がいい」
「身も心も、お前の全てが欲しい」
「お前だけでいい」
「生きたいなんて、言うな」
「未来を求めないでくれ。
 世界の事なんて考えなくていい。
 子供なんていらない。
 もう他の誰のことも、何も見るな。
 俺の事だけ。
 俺だけのために――傍にいてくれ」

「レイザ、くん……」
 何度も何度も読んだと思う名を、口に出した。
『唇、血の味だった。早く楽にしてあげたいのに治らないでって思う。
 そしたらずっと毎日会える』
『生きてるうちにちゃんと伝えたい。
 レイザくんが一番大事。
 明日は素直に好きって言えますように!』
「そして……彼女は……彼と共に……マグマの中に、飛び込んだ」
 メリッサの口から、言葉が漏れた。
 感情を封じたまま、蘇る記憶。

「私は、“メリッサ”は、彼に必要とされていた。
 “メリッサ”は“レイザくん”が一番大事で、特別だった。ずっと一緒にいたかった」
 感情を閉じ込めているのに、見開かれた目から涙がいくつも零れ落ちた。

 

*  *  *


 箱船が出航する日の朝、入院中のメリッサのところに、アーリー・オサードが尋ねてきた。
「助けてくれたんだよね? ありがとう……」
 少しも笑みを浮かべず、暗い表情でメリッサは感謝の言葉を述べた。
「それで……あの時、あなた何か言ってたよね? 私に教えてくれないかな」
 感情を封じ込めたまま、真顔で尋ねるメリッサを、アーリーは憐れむような目で見ていた。
「私も聞きたいわ。あなた達がマグマに飛び込んだ後、何があったのか。彼がどうなったのか」
 それは、メリッサしか知らないことだった。
「わかった」
 メリッサは、感情を一切出さず、真顔で淡々と事実だけを語る。
 彼女の脳裏の中に呼び覚まされた、一部始終を。
 その全てを聞いたアーリーは「そう」と薄く微笑んだ。
「あなたは何か知ってるの? “レイザくん”に何が起きたの」
「知ったところで、あなたと彼の結末は変わらないわ」
「……それでも、知りたいの」
 強く真剣な目で、メリッサはアーリーを見据えていた。
「痣を持つ女は命と力を捧げて、魔力を鎮める。男は、命と魔力を取り込み、制圧して王となる。そんな言い伝えがあるそうよ。痣持つ女と、男では役目が違うということ。
 ――あなたの話を聞いて、私は確信したわ。彼は生きている」
 メリッサの心臓が大きく高鳴った。
「彼を置いて生き残ったことが不服そうだけれど、彼が私の……一族の想いを受け入れ『生きる』と決めた時点で、あなたの結末に大きな違いはないわ」
 彼のことだけを考えて、力を注ぎ続けていたとしても。力尽きた後、レイザはメリッサを置いていっただろうと。
「彼はあなたを守り続けることが、できなかったから。あなたが彼と結ばれる方法は、共にあの場で死ぬこと以外なかったのよ」
 一緒に、死んでほしかった……唯一の女性――変わってしまった彼の声が、思い浮かんだ。
「一緒に『生きたい』女性なら、彼には他にもいた。私はそのうちの1人を知っている」
 “メリッサ”の記憶の中にも、彼を慕っていた女の子達の姿が残っていた。
「神殿にあった聖石は私達の遠い祖先が残したもの。その力を用いて、痣のある女性が火山に――痣のある男に命と力を送っている」
 全てが終わった後、火山に溜まっていた魔力は遥か彼方へ、海の上へ向かって放出されたことを、神殿の高位魔術師たちは感じ取っていた。
「つまりね、帰ったのよ。一族の想いと、魔力を身体に取り込み、海の上に。新たな世界を築くために」
 溢れてくる強い感情に、メリッサは眩暈を感じていた。
「ここは終わる世界。ここには何も希望はない。私は海の上に行き、ここには帰ってこないし、彼ももう帰ることはない。
 彼があなた達を守るために残した力を持つものが、1人この地に残るはず。見つけ出して、仮初の幸せの中で生きていけばいい」
(“メリッサ”あなたは、一緒に生きる人として『選ばれなかった』んだ)
 メリッサは、封じた自分の心に語りかけていた。
(そうだね、あなたは彼の求めに応じ切れてなかった。“レイザくん”は自分のことだけ、見ていて考えて、深い愛で覆っていてほしかった。でも、あなたはあの時も考えていた――“メリッサ”のことを)
 苦しそうな彼の顔が思い浮かぶ。
 状況は変わらなかったかもしれない。でも、あの時――自分の愛よりも、彼の心を尊重していたら。そしてそれ以前も誰かレイザの幸せを求めてくれるものが、死以外の術を知らなかった彼よりも彼女に、アーリー・オサードに深く踏み込んでいたら、何かが変わっていたかもしれない。

 彼が自分に求めた愛が、幼子を守る母のような、無償の愛ならば……。
 待っていたらダメだ。迎えに行ってあげないと。
 お母さんって、ヤメロとか、来んなとか、ウザイいとか、ほっとけとか、さんざん拒否られて。
 やっと連れ戻したと思ったら、他の女の子のものになっちゃうんだよね。

 薄れゆく意識の中、誰かがメリッサにそう語りかけていた。


●笑顔
「はーい、ミーザちゃん元気ー」
 箱船出航直前まで、館でメイドとしての仕事に勤しんでいるミーザ・ルマンダのもとに、貴族のロスティン・マイカンが花束を手に訪れた。
「こっちはもう元気になったよー」
 と、ロスティンは細い腕に力こぶ一生懸命作ろうとする。
「ふふふ、ロスティンさんお疲れ様でした。ちょっと筋肉痛辛かったですけれど、私とっくになんともないですよ。ロスティンさんの側にいましたから、火傷もしていないですし」
 ミーザは綺麗な笑顔で答えた。
「いやー、ほんとあれはギリギリだったねー。ぶっ倒れる寸前続出だし今も臥せっている人もいるみたいだし、やっぱり体力作りこれからも続けていかなくてはいけないな」
 うんうんと頷く彼に、ミーザもそうそうと頷く。
「それにミーザちゃんの回復魔法無かったら全滅だったよね。あ、これ実家から帰る時にくすね……ちょっと貰ってきた花だけど、お礼にね」
 ロスティンはミーザに花束を差し出す。
「ありがとうございます。お部屋に飾らせてもらいます。みんな、喜ぶと思います」
「まーレイザはまだ帰ってきてないけど、暫くしたら帰ってくるだろうし、ここでの苦労も一区切り。次は海の上に出て、地上探しの旅だね」
 そんな彼の言葉に、ミーザは何も答えず微笑みだけを浮かべていた。
「ミーザちゃんが間違いなく乗れるよう、確認してくるから」
 そこまで早口で話すと、ロスティンはふうと息をつき「さて」と声のトーンを落として、話を続ける。
「まあ、なんだ。さっき実家から帰ってって言ったけどな、実は両親に話をしたんだ」
「……ご両親とお話をしたのですね」
「うん。地上に出たらミーザちゃんの身内を探すってのと、皆の悲しみを減らすために自分のできることを探そうってね。
 今の俺は半端者だし水の魔法がちょっと使えるだけの人間だけどな、それでも頑張れば誰かを笑顔にすることができるとは思うんだ」
「ロスティンさんは水の魔術師としてかなり有望ですよ。才能にも恵まれているので、その気にさえなれば、重要な役割を担えますよ。……そしたら、私はちょっとさびしくなっちゃいますけれどね」
 ミーザの言葉に笑みを返して、ロスティンは彼女を見つめる。
「それとな、ミーザちゃんにプロポーズするってこともな」
「……」
「まあ、今すぐ結婚とかは無理だし、これからもバタバタするだろうしね。地上でしっかり実績叩き出して、誰にも文句を言われないぐらいになったら、その時に改めてプロポーズするよ。だからちょっとだけ待ってくれよな」
 ロスティンがそう言うと、ミーザは少し考えた後こくりと首を縦に振った。
「あ、あの……多分、ご両親メイドの私との結婚、認めてくれなかったと思うんですけれど」
「え……あ、うん。でも認めさせるから」
「もしかしたら、私の親族側もロスティンさんとの結婚認めてくれないかも、です」
 困ったように、ミーザは形の良い眉を寄せている。
「んー、そうか。やっぱり身分的なこと? ミーザちゃんと結ばれるためには、絶縁はせずとも家を出るくらいの気持ちがなきゃダメそうか」
「いえ、実はですね」
「ん?」
「私の父親、大きな国――帝国の、元皇帝陛下なんです」
「……は?」
「なんちゃって」
 途端、悪戯気にミーザは笑った。
「はははは、面白い冗談だ。それじゃ、大国の皇帝陛下に認めてもらえるよう、頑張るぞー」
 そう、ロスティンは笑う。
 とてつもない未来が待ち受けているとは、知らずに……!


★*誰かのために
 トゥーニャ・ルムナは、新たな居住区を歩き回っていた。彼女に生命力を提供してくれた囚人に、何としてもお礼が言いたかったのだ。しかし、脱獄の責任を負わなかった彼女は、囚人と接触することは未だ禁じられている。……もし、あの時、みんなで出ようと促した自分にも責任があると認めて、囚人として協力していたら。もしかしたら、アーリー・オサードたちと同じように釈放され、彼女の自由は制限されなかったのかもしれない。
 強く足を前に進めるトゥーニャの心に、小さく、そして冷たい風が吹いた。
「お、あれ……あいつ……?」
「おい……もしかして……」
 ふと、遠くから、聞き覚えのある声が聞こえる。
「おーい!」
 大声が、彼女を呼び止める。振り向くと、わずかばかり遠くのほうに、3人の囚人の顔があった。

「元気そうだな」
「おかげさまで」
 トゥーニャが笑うと、男たちはニカっと笑い返した。
「しかし、どうして火山なんかに? 騎士団に無理やり連れていかれたのか?」
 その質問に彼女は「ああ……」と言葉を濁して、考えた。1人だけ先に釈放されていたとは言いづらい。かと言って嘘を吐くのも、彼らに感謝を伝えに来た身としては、違うような気がした。
「ぼくは、自分の意思で行ったんだよ」
 彼女はそれだけ答えて、「ありがとう」とすぐに続けた。
「ありがとう? 何が」
 目を丸くする彼らに、トゥーニャははっきりと付け加えた。
「助けてくれて」
「んー、なんだかよく分からないが、役に立ったなら良かった。協力したおかげで、俺らも出られたしな!」
 彼らが朗らかにそう言うのを聞いて、トゥーニャはただ、「おめでとう」と返すしかなかった。
「今は、ここで共同生活しながら、騎士団の仕事を手伝ってるんだぜ!」
「へえ……そうなんだ。よかったじゃん」
 にこりと、彼女は笑って見せた。

 元囚人たちからずっと離れたところを警邏していた騎士団員に近付いていったトゥーニャは、小声でつぶやいた。
「あのさー」
 トゥーニャが目線を下にしたまま、小石を蹴っ飛ばして転がした。
「なんですか?」
「囚人たちのお世話をする人も、減ってるよね?」
「ええ」
「ぼくじゃ、ダメかな」
「彼らと決別して釈放されるのを望んだのは君自身だ。しかし、共に脱獄をした彼等以外の罪を犯した者であるのなら、君が役立てることもあるかもしれない」
 胸が、どくんと高鳴った。
「そのためには、多くを学び、人々の救いとなる力を手に入れることが不可欠だろう」
 騎士団員のことばに、トゥーニャは少し考えて、それから「わかった」とうなずいた。魔法以外の、誰かを救うための力。このマテオ・テーペを形作る役割を持つために、彼女はそれを身に着けることを心に誓ったのだった。


★*マテオ・テーペに別れを告げて
 エリス・アップルトンは箱船の床板をじっと見て、そこに過去の自分の行動を描き出していた。

(そう、あれは大洪水に見舞われる日のこと。――私はただ寮の自室で布団をかぶって震えているだけでした)
 漁港へと走ることができたなら、あの時、船へと乗り込むことができたはず。ずっと外の世界を見たいと思っていたのに、私の足は、体は、少しもあの場所から動くことが出来ずにいた。
 目を閉じると、見慣れた町並みがまぶたの裏側に浮かび上がってくる。きっとあの日は大勢の人が、港へと続く大きな道を埋め尽くすようにして、船を目指していたのだろう。思い出の詰まったこの地を、私は希望の船で後にしたのだ。
 あの時、私が漁港へと行けなかった理由。
 船に乗ろうとする人でごった返していたから。混乱し荒れる人々が危険だったから。
 それも確かにあったような気がするけれど、本当に私が怖かったのは、「誰か」じゃない。
 何も知らないまま、流されて外の世界に行くということ。もし陸地にたどり着けたとしても、そのままそこで、何もわからないままの時間が過ぎていくこと。
 私は、その「未知」、そして「無知」を恐れていたに違いなかった。
「なぜ船に乗らなかったのだろう」と、今の今まで、私はずっと後悔してきた。だけど、これでよかったのだ。あの時の私の選択は、決して間違っていなかった。ようやく今、そう思えるようになった。私は、あの頃みたいに、まだ何も知らないただの子供ではなくなったのだ。
 船が動き出せば、やがてこのまぶたの裏の世界すべてが、まるで作り物だったように、過去の記憶に変わっていってしまう。私をここまで守り育て、大きく成長させてくれた魔法学校や町が、今、私から切り離されて行こうとしている。
 この船は、私の知らなかった、そして私の知りたかった、未知の世界へと私を連れて行ってくれる。
 私には、まだ変われていないところもあるだろう。この航海には、不安や恐怖だってもちろんある。だけど、それよりも強い気持ちが、この胸の中にひしめいている。それは、使命感。ここに残って待っていてくれる人を救うという、大きな役割を果たすこと。あのときと決定的に違うことが、それだ。私は、自分のしたいこと、やるべきことを知ることができた気がする。そして、そのために今度こそ、自分の意志で外の世界へと行くことができる。あの日震えて動けなかった私は、今、この船の上にはいない。
 記憶の中の人々は笑顔でこの船を、私を、送り出そうとしてくれている。この小さな箱船に、マテオ・テーペの希望を託して。私のすべきこと。私が、この世界のために出来ること。それを、私は成し遂げに行くんだ。多くの歓声が聞こえる気がした。思い出に変わりつつあるマテオ・テーペのことを、どうか忘れるなと、ここに必ず、希望と未来を持って帰ってきてくれと、私に懇願するような、みんなの声が。
 振り向いて遥か後ろを見ても、もうあの町は見えない。あまりに遠かったはずの海上は、すぐ手の届く場所にまで来ている。

 



タイトルの前に
■がついている物語は、鈴鹿高丸

◆がついている物語は、冷泉みのり 
●がついている物語は、川岸満里亜
★がついている物語は、東谷駿吾
が執筆を担当いたしました。

尚、*がついている物語は、川岸がプロット、もしくは監修を担当しております。

NPCの登場指定や時期の条件違いのご依頼につきましては、調整をさせていただいております。

マスター、ライターより
鈴鹿高丸です。今回は二名の方のリアクションを担当させていただきました。
もう後残り少しですが微力ながら頑張りますのでよろしくお願いします。

こんにちは、冷泉です。
当シナリオにご参加いただいた皆様、またご指名くださった皆様に感謝を!
年の瀬で忙しい中の、一時のお楽しみになれれば幸いです。

お世話になっております、川岸です。
沢山のご指名ありがとうございました。
内容が他マスターの領域のお話に関しましては、より上手く描けるマスターに書いていただきました。
書きたいことは色々とありますが、短くまとめられそうもありません……。
最後まで楽しんでいただけますよう、頑張ります。

こんにちは、ライターの東谷です。
少しだけ執筆を担当させていただきました。
いつも担当させてもらっていたイベシナとは違う皆さんの真面目なお顔を見れて楽しかったです。
マテオ・テーペに残る人、新天地を探して箱船に乗った人。皆様の前途が輝かしいものであることを信じています。

 

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