8月度休日シナリオ

 

『とある休日の物語 第1話』

 

◆目覚めのどんぐりコーヒー
 人工太陽が打ち上げられ、一日が始まる。
 薄い日差しがマテオ・テーペを照らしていき、その光は港町のとある安宿にも差し込んだ。
 その一室。
 カーテンの隙間から入り込む朝日で、ヴァネッサ・バーネットは目を覚ます。
 彼女がこの地を訪れたのは、大洪水前──まだここがメイユール伯爵領であった頃だ。
 旅医者としての一時の滞在先として選んだのが、この女性限定の安宿だった。
 安さ故かオーナーの人柄故か、外国人客が目立つ。
 オーナーは避難船に乗って行ってしまったが、ヴァネッサはこの部屋に居続けている。
 その時にいた他の泊り客も大半は避難船に乗っていったけれど、その後、家を失ったり国に帰れなくなった女性達が住み着くようになったので、結果的に利用者の人数はほとんど変わっていない。
 家賃は──ツケだ。
 目覚めの少しぼんやりとした頭を抱えたまま適当に身なりを整えたヴァネッサは、まず最初に食堂へ向かう。
 ここでは食事は個人の自由だ。
 ヴァネッサの一日の最初の仕事は、自作のどんぐりコーヒーを淹れること。
 森で拾い集めたどんぐりを宿の裏で干して乾煎りしたものだ。
 沸かしたお湯で濾された黒い液体から立ち上る香ばしい匂いに、ヴァネッサの頭はようやく正常に働き始める。
 一口すすると、淡い渋みが舌に残った。
 食堂の大きな窓から外の景色をぼーっと眺めながら、少しずつカップの中身を減らしていく。
 とりとめもない思考は、やがて障壁縮小のところで止まった。
 小さくなる障壁は、馴染んだこの安宿を守ってくれない。
 他の住人は、もう引っ越しの準備を進めているのかと、ふと気になった。
 ──と、誰かが食堂に入ってきた。
「おはよう。私にも一杯いただける?」
「おはよう。珍しく早起きだね。……そこに座ってな」
 入ってきたのは、ヴァネッサより少し年下の外国人女性。彼女が泊まっていた宿はもっと海に近かったため、障壁の外側に沈んでしまった。
 避難船に乗らなかったのは、乗っても助かるかわからなかったからだそうだ。それなら、まだ食べ物が採れるここに残ったほうがいいと判断したのだとか。
「はい、どうぞ」
「ありがとう……いい香り」
 ほんのり微笑む彼女に、ヴァネッサは先ほど思ったことを聞いてみた。
「引っ越し? 荷物は少しずつまとめてるわ。ねぇ、ログハウス建てるの、私も手伝ったほうがいいかしら」
「……あたしの仕事を増やす気かい?」
「じょ、冗談よ。だから、そんな目で見ないで」
 やれやれ、とヴァネッサは肩をすくめる。
 それからしばらく会話もなく、二人はゆっくりどんぐりコーヒーを味わった。
「ヴァネッサ先生は今日もビル先生のところとか回るの?」
「そうだね」
「がんばってね。コーヒーごちそうさま」
 女性はカップを洗うと食堂を後にした。
 ヴァネッサのカップも空になっていたが、彼女はまだ席を立つ気にはなれず、まだ少しの間窓の向こうの景色を眺めていた。


◆あなたの力になりたい
「最初に行くのは、動物除けの柵を作りたいから手伝ってほしいっていう農家よ」
 何てことないように言ったリルダ・サラインに、トモシ・ファーロは目をぱちくりとさせた。
 はたしてこれはリルダがやる仕事だろうか、という理由だ。
 そんなトモシの気持ちを見透かすように微笑むリルダ。
「どんな動物が畑に入ってきたのかとか、人を襲うような動物が来る可能性はないかとか……その辺の詳しい話も聞きに行くの」
「ああ、そういうこと」
「高齢のご夫婦なんだけど、旦那さんが腰を痛めたらしくて、自分達ではどうにもできなくなってしまったのよ」
 田畑が広がる道を並んで歩いてしばらくすると、目的の農家に着いた。
 来訪を告げたリルダを老婦人が出迎え、二人は畑へ案内された。
 畑にはリルダ達の他で手伝いの人が一人、黙々と雑草抜きをしている。背のある農作物に隠れて顔はわからないが、その小柄な姿には見覚えがある気がした。
 その畑を通り過ぎ、森側まで着くと「このあたりなのよ」と老婦人が立ち止まる。
 リルダとトモシは腰をかがめて足元の様子をよく見た。
 慎重に周辺を探ると、確かに動物らしき足跡があった。
 タヌキだろうか。
「柵は組み立てるだけなのよね?」
「ええ。準備が終わったとたんに腰を痛めたのよ。しょうがない人よねぇ」
 くすくす笑う老婦人。リルダとトモシもつられて笑った。
 柵の設置はトモシが中心になって行われた。
 手際よく進めることができたせいか、予定より早くに終えることができた。
 老夫人に完了を告げ確認してもらって農家を後にすると、リルダはすぐに次の農家へ向かおうとする。
 それをトモシが引き止めた。
「リルダさん、次に行く前に少し休憩しようか」
 トモシは道の途中にある木の根元に腰を下ろした。
 そして、肩に提げていた鞄から果物の包みを取り出し、リルダに差し出す。
 包まれていたのは、たくさんのラズベリー。
「あら、おいしそう! こんなにたくさん、どうしたの?」
「この前、森に入った時に見つけたんだ。障壁が縮小される前に、木の実とか収穫できないか調べてた時にね。さ、どうぞ」
「そうだったの。ありがたくいただくわ」
 トモシの隣に腰を下ろしたリルダは一粒を口に入れ、にっこりした。
「これ、甘味の方が強いのね」
「うん。その木だけそんな味だった」
「ふふっ。ラッキーだったわね」
 心地よい甘酸っぱさに、二人の疲れが癒えていく。
 二人で少しずつラズベリーを食べながら、トモシはアンセルのことや食糧の確保などを話した。
 そんな会話と会話の合間。
 トモシはふと、もどかしさを覚えた。
 リルダの助けになるなら仕事の話も喜んでするけれど、思い返せばそれ以外の話をした記憶がほとんどない。
 そのことが、少し寂しかった。
 だから、多少強引でも話題を変えることにした。
「えーと……リルダさんは、ここを出たらやりたいことはある? 自分のことで」
「そうねぇ……もう一度、海運会社を立ち上げたいわね」
「……」
 もう少し趣味的なことを聞きたい気もしたが、リルダにとっては働くことも趣味のうちなのか。
 そんなこと考えているうちに、彼女にとって自分とはどんな存在なのかという方向へ思考は流れていく。
 トモシはリルダより一回り近く年下で、地位も何もない外国人で、彼女のほうがずっとしっかりしていて……。
(もしかして、弟的存在とか?)
 思い至った瞬間、胸が重苦しくなった。
「どうしたの、大丈夫?」
「……いえ。そろそろ行きましょうか」
 立ち上がるトモシを不思議そうに見上げるリルダだが、トモシ自身も自分の心がよくわからなくなっていた。
 胸の重苦しさは、もうない。あれはいったい何だったのか。
「えーと次は、荷車の修理ね」
 リルダと並んで一歩を踏み出すたびに、楽しいという思いが心に満ちていく。
 あと三、四件、向かう先があるが、それさえも楽しみに思うトモシだった。


◆訓練が休みの日は
 今日のアウロラ・メルクリアスは、最近ややご無沙汰になっていた農家の手伝いへ行くことにした。
 顔見知りの農家を訪ねると妙に歓迎され、首を傾げる。
「お父さんが腰を痛めちゃったのよ。来てくれて助かったわ」
「そうだったんですか。じゃあ、お父さんの分もがんばりますね!」
 この農家は老夫婦で畑の世話をしている。
 出てきた老婦人がお父さんと呼んだのは、彼女の旦那のことだ。
 アウロラはさっそく畑に出ると、雑草抜きから始めた。
 しばらく黙々と仕事をしていると、どこからか聞いたことのあるような声が二人分聞こえてきた。
 手を止めて声のほうを見ると、リルダとトモシの姿があった。
 老婦人に案内されて、畑の端のほうへ向かっている。
(畑仕事じゃなさそうだね……)
 畑仕事ならアウロラにも話すはずだ。
 立ち止まった遠くの三人は足元を注意深く観察した後に戻って来ると、物置小屋から大量の木材を荷車に積んで再び端のほうへ行ってしまった。
 その木材の形から、アウロラはトモシ達が何をしに来たのか見当をつけた。
(きっと柵を立てに来たのね。また森から動物が来ちゃったのかな)
 以前は狼と言っていたが、今度は何だろうか。
(狼みたいな怖い動物じゃなきゃいいけど)
 作業の様子を少し眺めた後、アウロラは自分の仕事に戻った。
 今日は他の農家にも顔を出して手伝いたいと思っている。
 昼前に畑の手入れが終わった。
 今日は魔法の訓練も兼ねて、最後に地の魔法で土の回復を試みた。
 たぶんうまくいった……と、アウロラはそれなりの手応えを感じていた。
 終了を老婦人に告げると、お昼ご飯に招待された。
「そんな、悪いです。あまり気を遣わないでください」
「あらあら、大変な仕事を手伝ってくれたお礼をするのは当然よ。私を恩知らずのケチババアにするつもり?」
 にこにこ笑いながら言う老婦人に、アウロラはとうとう家の中へ引っ張り込まれてしまった。
 そこからがまた大変で、年齢のわりに小柄な彼女のためにと食べきれないほどの料理を出されたのだ。
 何度もお礼を言って農家を辞した後の道中、アウロラはパンパンになったお腹を何度もさすったのだった。

 一日の仕事を終えて温泉でさっぱりした後、領主の館の部屋に戻ったアウロラはすぐに義足の手入れを始めた。
 替えのないこの足を、彼女はとても大切にしている。
 大洪水に巻き込まれてからこの義足での生活が始まり、当初は周囲も何かと気遣ってきたが、アウロラが前向きにがんばる姿を見て彼らの態度も変わってきた。
 もう、腫れ物に触るように接してくる人はいない。
 今日手伝いに行った農家の人達も、ごく普通の笑顔を向けてきた。
 そのことが嬉しいとアウロラは思っている。
 手際よく分解された義足は、関節部を特に丁寧に手入れされた。
 ここはデリケートな部位で、埃などが詰まりやすいのだ。
「今日はいっぱい働いたからね。これからも、よろしくね」
 最後に全体を丁寧に拭かれた二本の義足は、綺麗になったことを喜んでいるように輝いて見えた。


◆次はわたしが叶えたい
「うん、いいよ。いい感じ」
 リック・ソリアーノに手を引かれながら、バタ足の練習をするイリス・リーネルト
 ちらほらと人がいる温水プールで、イリスはリックに泳ぎを教えてもらっていた。
 ある程度こなしたところでいったん休憩をとる。
 縁に上がり、イリスは呼吸を整えた。
 隣にリックも腰かけると、にっこりと笑いかけてくる。
「いい感じに上達してるよ」
「そ、そうかな。自分じゃよくわからないけど」
「次は腕の動かし方と息継ぎの練習しようか」
 リック先生はやる気満々だ。教え子の上達ぶりにテンションが上がっているのかもしれない。
 もともと運動は苦手なイリスだが水泳の練習をしようと思ったのは、リックと約束したからだった。
 そのために前に用意したフリルバンドゥビキニをまた引っ張り出し、普段はゆるくまとめている髪を二つのお団子に結い上げた。
 充分な休憩の後、練習が再開された。
 リックの掛け声を合図に先に息継ぎの練習をする。
 それをしばらく繰り返して、イリスが慣れてきた頃。
「手を離すよ。腕を動かしてみて──」
 そう言って、リックの手がそっと離される。
 支えを失ったイリスはとたんに不安になるが、
「大丈夫、ちゃんと見てるよ」
 というリックの声が聞こえて肩の力を抜き足を動かし、数を数えて息継ぎをする。
 疲れてだんだん息苦しくなってくるが、もう少しと頑張った時、息継ぎでわずかに水を飲んでしまった。
 ヒュッと喉が詰まり、泳ぎを中断する。
 足を着こうとした滑らせた瞬間、イリスは軽くパニックを起こした。
 咳き込み、息を吸い込もうとして、ここが水中であることを脳が知らせ呼吸を止める。
(く、苦しい……っ)
 早く水面に出なくてはと手足をバタつかせた時、何かに引っ張り上げられた。
「イリス! 大丈夫!?」
「……っ」
 イリスの腕を掴み、顔の水滴を何度も拭うのは青い顔をして焦るリックだった。
 とたん、イリスは咳き込みながらリックにもたれかかった。
 リックの手が、落ち着かせるようにイリスの背を撫でた。

 待ち合わせの休憩所へ行くと、もうリックは椅子に座って何か飲んでいた。
 イリスも飲み物を買ってリックの隣に腰を下ろす。
「待たせちゃった?」
「ううん。ちょっと前にあがったとこ」
「リック、今日はありがとう。おかげで、ちょっとだけど泳げたよ。楽しかったし」
「僕のほうこそ。その、あんまりいい先生じゃなかったと思うけど」
「そんなことないよ。泳ぎも……踊りだって、リックが教えてくれたからできるようになったんだし。リックが練習しようって誘ってくれなかったら、こうしてプールに来ようなんて思わなかった」
 ありがとね、とイリスが再度お礼を言うと、今度はリックは照れた顔で受け止めた。
「それでね、お礼がしたいの。何かしてほしいことある? わたしにできることなら、何でもいいよ」
 イリスは、期待のこもった目でじっとリックを見つめる。
 リックはしばらく考えていたが、やがて見つめられることが恥ずかしくなってきたのか、そわそわと落ち着かなくなってきた。
「す、すぐには浮かばないよ……。もう少し、考えてもいい?」
「うん。決まったら教えて。いつでもいいから」
 ありがとう、とリックは微笑んだ。
「これからどうする? 日が暮れるまでもうちょっとあるけど。散歩でもする?」
「そうしよう」
 席を立つと、二人は仲良く並んで日が傾き始めた町へと繰り出した。


◆エーヴァカーリナ池の女神
 ある日の早朝、休みをもらってステラ・ティフォーネは準備を整えてエーヴァカーリナ池へ繰り出していた。
 お茶とお弁当、タオルに着替え……と、何やら大荷物だ。
 ステラは、場所を決めると敷物を敷いて荷物を置いた。
 思った通り、朝早いこの時間は人がいない。
 夜明けの薄い日の光を受ける水面は静かで神秘的だった。
 少しの間、何とも言えない色合いの水面を眺めていたステラだったが、次にはおもむろに服のボタンを外していった。
 ためらうことなく服は脱がれていき、すぐに一糸纏わぬ姿になる。
 透き通るような白い肌は、神々しくもある。
 ステラはゆっくりと深呼吸をした。
 まだ寒いくらいだが、かえってそれが気持いい。
 池の縁まで進み、サンダルを脱いで足先を水につける。
 キンとした冷たさに思わず震えた。
「ふふっ」
 何故か楽しくなり、一歩一歩池の中へ。
 腰まで浸かって歩みを止める。
 体の芯まで凍らせようという冷たさに背筋がゾクゾクするが、同時に気持ちが良いとも感じた。
 手のひらに水をすくい、高くかかげてこぼす。
 透明な水は、ステラの中に知らず居座っていた疲れを洗い流していくようだった。
 ところで、ステラは一応人がいないことを確かめてから水浴びを始めたが、彼女に遅れて池に魚を採りに来た町の男が二人いた。
 舟を出して昨日のうちに仕掛けた罠の回収に来た二人だったが、遠目に裸の女を目にして仕事も忘れて見入ってしまう。
「誰だ……?」
「知らないのか? あれは女神って言うんだぜ……」
「そうか、あれが女神か。いいカラダしてんだな。見ろよ、あの細い腰……」
「女神だからな……」
「じゃあ、近づくと消えちまうな……」
「ああ。遠くから見るだけだ。邪魔しちゃいけねぇ……」
 二人はしばらくの間、夢見心地で舟の上で揺られていた。
 そんな二人の存在など知らず、水浴びを終えたステラは岸へあがり、置いておいたタオルで水滴を拭っていく。
 服を身に着けた後は、穏やかな池の景色を眺めながら朝食を食べた。
 ここに来た時よりも高くなった人工太陽の日差しが、池の色を濃くしている。
 食後の温かいハーブティは、ステラの体をやさしく包み眠気を誘った。
 逆らわずに横になり、思うままに手足を伸ばし体の力を抜く。
 自覚しないところに溜まっていた疲れが、スウッと癒されていった。
(知らないうちに、疲れていたんですね……)
 目を閉じると、とたんにまどろみがやって来る。
 少しだけ。
 そう思いながら、ステラは眠りを受け入れた。


◆小高い丘で開放されて
 少し出かけよう、と布製の大き目の鞄を肩に提げて言ってきた岩神あづまに、アンセル・アリンガムははじめ戸惑いを見せていた。
 剣の稽古を終えるのを見計らっていたかのように現れたあづま。
 アンセルにこの後の予定はない。
「たまには、気晴らしも必要でしょう? あなたの好きなもの、たくさん作ってきたんですよ」
 と、鞄をポンと叩くあづま。
 アンセルは、観念はたように苦笑した。

 あづまは港町から少し離れた小高いところへアンセルを案内した。
 見晴らしがよく、港町が一望できる。
 アンセルは、ほぅ、と息を吐いた。
「なかなか良いところでしょう?」
「ああ。こういう景色は、ずいぶん久しぶりだ」
 穏やかな表情のアンセルに、あづまは満足そうに微笑む。
 それから鞄を下ろすと、中から敷物を出して広げた。
「お茶をどうぞ」
「ありがとう」
 あづまの横に腰を下ろし、お茶を受け取ったアンセルは一口飲むとホッと息を吐いた。
「うまいな。こういう眺めのところで飲むとなおさらだ」
「その言葉は、まだ早いのでは?」
 クスッと笑ったあづまが、お弁当の包みを開ける。言ったとおり、アンセルの好物ばかりが詰まっていた。
 あづまは、取り皿にそれぞれの料理を取り分けるとアンセルへ差し出す。
 二人はぽつりぽつりと静かな会話を交わしながら食事をした。時折、小さな笑いがこぼれる。
 あづまから見て、アンセルはだいぶくつろいでいるように見えた。
 彼のもっと個人的なことを聞いてみたいと思ったが、それは口にしなかった。
 まだ早い。
 何となく、そう感じたからだ。
 アンセルに対する感情が変わったのはいつからだったか。
 気が付けば、心の中に居座っていた。
 何かを抱えているらしい彼が気になっていた。
「こうしていると、ここが閉ざされた世界であることを忘れてしまいそうになるな。あまりにも、のどかで」
「そうですね。けれど、いずれあの港町も海に飲み込まれる運命なんですよね……。そうなるまでには……」
 ふと口ごもったあづまを、どうしたのかとアンセルが見つめる。
 あづまはゆるく首を振った。
「いえ、何でもないです」
「何か悩みがあるなら……」
「ふふっ。そんなんじゃないですよ」
「女将さんは、隠し事が上手そうだからな。一人で悩みを抱え込んでいそうだ」
「まさか。あたしはけっこう器用ですよ。一人で抱え込むなんて、そんな」
 冗談めかしてあづまが笑うと、アンセルもつられるように笑った。
「アンセルさん、またこうしてあたしと二人でお出かけしてもらえますか?」
「ああ。またどこか、眺めのいいところで」
「約束ですよ? もし破ったら……そうですね、そのお髭を剃ってもらいましょうか。ふふっ」
 アンセルは思わず髭をかばうように手で隠した。
「女将さんの怖いところは、本当にやりそうなところだな」
「客商売は誠実さが命ですからね」
 発揮するところが違うだろう、と呆れるアンセルに笑いながら、あづまはお茶のおかわりを注いだ。


◆木陰の約束
 マティアス・ リングホルムが領主の館へルース・ツィーグラーを訪ねたところ、少し待たされはしたものの門前払いをされることもなく、庭へ通された。
 木陰のテーブルにルースが座り、傍には侍女のベルティルデが立っている。
 何か言葉を交わしては笑っていた。
 マティアスの姿を認めると、ルースは立ち上がって彼を迎えた。
「よく来たわね」
 その言葉は、よくこんな退屈なところに来たわね、と言っているように聞こえる。
 ベルティルデに促されて、椅子に腰を下ろしたマティアスの前に紅茶が用意された。
「スコーンもどうぞ。それでは、わたくしはこれで」
 軽く礼をして去って行くベルティルデの後ろ姿を、マティアスは意外な思いで見送る。
「どうしたの、そんな顔して」
「いや……侍女が離れるとは思ってなくて」
「買い物を頼んだのよ。それに、もしあなたが不埒な真似をしようとしても、近衛兵がすぐに駆け付けてその首飛ぶわよ」
「しないから」
 冗談だと笑うルース。
 信頼の証と受け取っていいのかどうか。
 マティアスは彼女を訪ねた理由を忘れそうになった。
「ふぅ……まったく。タイミングを狂わされたっつーか」
「何のタイミング?」
「こっちの話。今日来たのはさ、この前のカードのお礼を直接言いたかったからなんだ」
 首を傾げるルースに、マティアスは苦笑する。
 おそらく彼の感覚は、ルースには理解できないだろう。
 しかし、それでも伝えたかった。
「誕生日祝い、書いてくれただろ。あれ、すっげぇ嬉しかった。まさか姫さんから祝いの言葉をもらえるとは思ってなかったから」
 社交辞令でも、という言葉は言わないでおく。
 もっとも、マティアスはそれでも嬉しいと思ったに違いないのだが。
「俺さ、孤児だから……あれが本当の誕生日じゃないかもしれないし。俺が生まれないほうがよかった奴がいたかもしれないしさ。だから、本当に」
「生まれないほうがいいなんて……そんなこと言う奴、踏み潰してやりなさい」
 過激な発言に、いつの間にかそらしてしまっていた目をルースに合わせると、彼女は憤慨したように口をへの字に曲げていた。
「この世に生まれた命は、それがどんな理由でも祝福されて当然なのよ。何より、自分で自分を貶めるようなことは言うもんじゃないわ」
 ルースの何に触れたのか、すっかりご機嫌斜めだ。
 マティアスはすぐに謝った。
 そんなつもりで言ったわけではないのだ。
「違うんだ。えーと、話を戻すけど……俺、銀細工とかのアクセサリーを作るの趣味にしてて、お礼にどうかなって」
「なんだ……そうだったの。もう、紛らわしいこと言わないでよ」
 そっぽを向いたルースはまだ口を尖らせているが、その顔は先ほどとは違いどこか照れているようにも見える。
「悪い……。けど、そうか。祝福されて当然か……」
 マティアスの口元が自然に緩んでいく。
「いい宝石とかはつけられないけど、勘弁な」
「シンプルでオシャレなものを待ってるわ」
「難しい注文だな。まぁいい。また次にこうして会える日に持ってくる」
 珍しくルースは優し気に微笑んだ。


◆花束とフリット
 ベルティルデ・バイエルが市場で果物を選んでいると、
「奇遇ですね」
 と、声をかけられた。
 声がしたほうを見ると、リュネ・モルがいた。ずいぶん大きな袋を手に提げている。
「こんにちは。リュネさんもお買い物ですか?」
「いえ、実はこれから領主の館をお訪ねしようと思っていたのですが、お会いできたのは幸運でした」
「幸運……?」
「ええ。あなたにお話があったので」
 リュネはベルティルデを端の方へ連れて行くと、大きな袋から包みを一つ取り出した。
 被せていた布を開くと、やや深い皿に何かのフリットが入っている。
「百合根のフリットです。食べる時に軽く炒って温め直すと、元のサクサクふわふわの食感を楽しんでいただけるものと思われます」
「百合根の……! 貴重なものをわざわざ……いいんですか? こんなにたくさん」
 今の気候では百合根は大きく育たない。
 リュネもたいして期待していたわけではないが、道端に咲いていたユリの中でまだ咲いていないものを選んで掘ってみたところ、まあまあの大きさの百合根が出てきたのだ。
 アクが強いものもあるので、調理には手間がかかる。
「前にお約束していた木苺のジャムはお渡しできませんでしたからね。こちらの新作を某おこりんぼさんと召し上がってください」
「某おこりんぼさんて……ふふふっ」
 こんな言われ方をされる人は一人しかいない。
「何でしたら、お三方とでもよろしいのでは? どなたが一番よく食べるんでしょうね? ……いえいえ、決して某おこりんぼさんがすべて平らげてしまうだなんて言ってませんよ」
「リュネさん、本音が全部出ていませんか? ふふっ。もしかしたら、わたくしが独り占めしてしまうかもしれませんよ」
「案外食いしん坊でしたか」
 くすくす笑っていたベルティルデは、やがて笑いを収めると送り返された木苺ジャムのその後をリュネに尋ねた。
「戻ってきたジャムは、近所の子供達に見つかってしまいましてね……分配を余儀なくされてしまいました。どうやら作っていた時にご近所中に甘い香りが漂っていたのだそうです」
「それはまた……目敏い子供達ですね」
「ええ、まったく。油断も隙もありません」
「でも、無駄にならなくてよかったです。子供達が喜んでくれたなら、それで」
「そうですね。私一人ではあの量を消費する前にダメになってしまったかもしれませんから。ところで……実は新作はもう一つありまして」
 こちらです、とリュネは大きな袋から百合の花束を取り出してみせた。
 何とも清らかな花束に、ベルティルデは目を丸くする。
「お部屋の片隅にでも添えていただければ」
「綺麗……ありがとうございます! 姫様もきっと喜びます」
「フリットと共にこの袋にどうぞ。まだお買い物を続けられるのでしょう?」
「ええ。姫様が果物を食べたいとおっしゃっていましたので」
「それは引き止めてしまってすみません。もしお叱りを受けるようでしたら、リュネに捕まったと言ってください」
「大丈夫ですよ。姫様も今は来客中ですから」
 そうして別れたベルティルデを見送ったリュネは、彼女に気づかれない位置から楽しそうに果物を選ぶ様子を見守ったのだった。


◆進め、模型帆船!
 少し陽が傾きかけてきた頃、コタロウ・サンフィールドは完成した帆船の模型を抱えて歩いていた。
 造船所の近くにある小さな池を目指していたのである。
 すると、後ろのほうから馬車が近づいてくる音が聞こえてきた。
 道の端に寄ったコタロウを馬車は追い越し、少し進んでから何故か止まった。
 降りてきたのはベルティルデだ。
 まさかの遭遇に目を丸くするコタロウに、ベルティルデは親し気に歩み寄った。
「こんにちは。珍しいですね、こんなところで。お散歩ですか?」
「いや……この船を浮かべようと思ってね」
「帆船の模型……? これは……とても良くできていますね」
 感心してコタロウが抱える模型を覗き込むベルティルデ。
 興味津々なその姿は、彼女を年相応に見せた。
「ベルティルデちゃんはお使い?」
「はい。果物を買いに市場まで行ってました」
「良いものは買えたかい?」
「ええ、姫様も満足していただけると思います」
「それは良かったね」
「コタロウさん、この模型はお一人で作ったのですか?」
 ベルティルデはやはり帆船の模型が気になるようで、話を戻した。
「そうだよ。休みのたびに少しずつ作っていって、今日完成したんだ。造船所で学んだことの復習にもなったよ」
「船が好きなんですね」
「夢でもあるしね」
 ベルティルデは、いつだったかコタロウが話した夢を思い出した。
 自分で船を造って、故郷や今まで訪れた地へ行ってみたいのだということを。
「初めてにしては、けっこういい出来だと思ってるんだ。それで、これから池に浮かべてみようと思って」
「きっと浮かびますよ」
「よし、ベルティルデちゃんのお墨付きだ。……それじゃ、そろそろ行くね」
「はい。急に呼び止めてしまってごめんなさい」
「いやいや。これを見てもらえてよかったよ。ベルティルデちゃん、お仕事頑張ってね」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
 ベルティルデは会釈をして馬車に戻っていった。
 遠ざかる馬車を見送りながら、コタロウは目的の池を目指す。
 道をそれて少しすると池が見えた。
 思っていた通り、模型のにはちょうど良い大きさだ。
 コタロウは池の縁に膝を着き、水面を覗き込んだ。
 それほど深い池ではなさそうだ。
「ちゃんと浮いてくれよ……」
 水面に手放す瞬間、迷いがよぎる。
 軽く息を吐き出し、コタロウは模型から手を離した。
 ゆらり、と揺れながら帆船が浮く。
 よし、と思わず声がもれた。
 浮いたとなれば次に気になるのは、進むかだ。
 コタロウは魔法でそよ風を起こした。
 帆がふくらみ、船はゆっくり前進する。
「おお……。どこまで行くかな」
 コタロウの目は感動に輝き、もっと進めと風を送る。
 船はそれに応えるように水面を滑り、とうとう向かいの縁まで行ってしまった。
 たいして大きくない池だ。もっと大きければ、途中で風が届かなくなって船は止まってしまっていただろう。
 コタロウは池をほぼ半周して船を回収した。
「うん、お疲れ様」
 コタロウは初航海を終えた船を労うと濡れた部分を拭き、ご機嫌で帰路についたのだった。


◆紳士の心得
 この日、ヴォルク・ガムザトハノフは港町にある雑貨屋に足を運んでいた。
 店内には様々な商品が置いてあるが、彼の目的は書籍のコーナーだ。
 大洪水前に小さいながらも貸本屋があったが、それは洪水で沈んでしまったため、雑貨屋が細々とわずかな本を並べているだけであった。
 こんな状態のため、ヴォルクが求めているような専門的な本は見当たらなかった。
 今日も魔法関連でとある発想があり、その参考にできればと思っていたのだが、これでは胸の内を占めるモヤモヤとした疑問は解決されない。
「どうしようかな……」
 と、次の行動のことを考えた時、視界の端に見覚えのある少女が映った。
「ジスレーヌじゃないか。買い物か?」
「あ、ヴォルク君」
 小物を見ていたジスレーヌ・ソリアーノがヴォルクを見ると、にっこりと微笑んだ。
「ちょっと小物を見にきていたのです。ヴォルク君は……本を借りに来たのですか?」
「そのつもりだったんだけど、ここにはなかったんだ。これも試練か……」
「勉強熱心なのですね。先生が言っていましたよ。お勉強したことは、きっと役に立つ時がくるって」
「そうか。それは励みになるな」
 ジスレーヌは商品をいくつか買うと、ヴォルクと共に店を出た。
「これからどうするんだ?」
「今日は特に何もないので、もう少しお散歩しようかと思ってます」
「俺もついてっていいか? 実はこの辺のことはよく知らないんだ」
 日々修行に明け暮れていたヴォルクは、港町を歩くことがあまりなかった。
 それなら、とジスレーヌは喜んで案内を買って出た。
「少しお腹がすいたので、パンを買おうと思っていたのです」
 そう言って向かったのは『ベーカリー・サニー』。
 ピークは過ぎたが、店にはまだおいしそうなパンが並んでいる。
「ここのパンはおいしいんですよ」
「お勧めはどれだ?」
「ん~、どれもおいしいので迷ってしまいますね……」
 ジスレーヌは惣菜パンを数点買うと外へ出て、半分をヴォルクに渡した。
 そして、少し行ったところにある小さな広場のベンチに座ってパンを食べ始めた。
「一緒に食べましょう」
 横に腰かけ、ヴォルクもパンにかぶりつく。
 ジスレーヌが勧めるだけの味だった。
「私は行ったことありませんけれど、『真砂』というお酒と食事を出すところもおいしいと聞きました」
「ああ、俺の行きつけだな。あそこのハンバーグは……ただのハンバーグじゃない」
 急に妙な迫力で語り出したヴォルクに気圧され、ごくりと唾を飲み込むジスレーヌ。
 ヴォルクは真剣な顔で言った。
「たとえ悪魔といえど、あのハンバーグの前には無力な存在となるだろう。そういうハンバーグだ。……わかるか?」
「つまり、最強無敵のハンバーグなのですね。何かしら……震えがきますね」
 神妙な顔でヴォルクは頷いた。
 それからヴォルクは仕立屋や靴屋など、生活に必要な店へと案内された。
 それらは決して彼が今欲しい知識を持っているわけではなかったが、そうであっても、そのような思いはかけらも出さずジスレーヌの話に耳を傾けた。
 父から習った紳士術である。
 それに今は何もなくても、いつか魔王になるために役立つかもしれないではないか。
 世の中、何がどこに繋がっていかるかわからないのだから。
「……あれ? 魔王じゃなかったかも?」
「どうしたのです?」
 何でもない、とヴォルクは首を振り、ジスレーヌとの散歩に意識を戻した。


●散策
「今日は家事当番俺じゃねぇしな」
 港町住民のクロイツ・シンは自宅周辺をのんびり散歩していた。
 洪水より前に彼の両親は他界しており、現在は弟2人と共に農業で生計を立てて暮らしている。
 長男のクロイツは一家の主夫としての役割も担っているのだが、弟たちにも交代で手伝わせており、今日は1日家事から離れられる日だった。
(弟らに土産になるもん見繕って帰るか)
 市場に出て、店を見て回るが珍しいものなど何もない。
「あんま季節感ねぇよな……」
 そりゃそうかと、クロイツはため息をついた。
 季節による温度の変化もなく、収穫できる食材もあまり変わらない。
「海の側だったのが、今は海の中に作った空間、か」
 顔を上げると、遠くに水の障壁が見えた。
 この辺りも、あと数か月で沈んでしまうのだという。
「辛気臭くなっても事態が好転する訳でもねぇし、何か美味いもの食ったりして気分上げるかな。……ん?」
 気持ちを入れ替えて、食堂を探そうとしたクロイツは、自分と同じようにのんびり道を歩いている女性――カヤナ・ケイリーを発見した。
「よーっす、キモダメシの炊き出しでは世話になったな。今日は休日なん?」
「あ、こんにちはー。うん、久しぶりの1日お休み」
「昼飯まだなら、一緒に食べにいかね?」
「そうね、ちょうどお腹が空いたなって思ってたところ。あそこでどうかしら」
 カヤナが市場の一画にある、食堂を指差した。
「ん、じゃそこで」

 クロイツとカヤナは2人席に向かい合って腰かけて、それぞれ好きなものを注文した。
「農作業してると昼飯ってその場で煮込んだシチューとかだからな」
 クロイツが頼んだのは、ハンバーグにサラダにパン。
「健康的でいいじゃない。食堂のまかないは野菜より主食系が多くて太るのよ」
 そう言いカヤナが選んだのは、炊き込みご飯とサラダのセットだった。
「それで、今日はなんで誘ってくれたの? 実は私とデートするために、待ち伏せしてたとか?」
「いや、たまたま見かけたからだよ。お前が市場来たのもたまたまだろ? 俺ん家男所帯で、食卓もそういう意味での華がねぇし、普通に家族以外の奴と楽しく食事ってのも普段機会がないからっていう、全く知らねぇとかじゃねぇし」
 そんな風に理由を語るクロイツをカヤナは楽しそうに見ていた。
「私、町では貴重な若い女性なんだし、次はもっとロマンチックに誘ってよ。今日は勿論奢ってくれるのよね?」
「おい」
「冗談よ。タダより高いものはないしね」
 カヤナがそう言い、2人は顔を合せて笑い合った。
「同性の弟らだとこういうのもねぇんだよ。活きがある華ってのはいいね」
 ほっこりしながら、クロイツは届いたハンバーグを食べていく。
「兄弟で暮らしてるの? 全員で農業を?」
 カヤナも届いたサラダを口に運びながらクロイツに尋ねる。
「おう、俺と弟2人で農業して暮らしてる。カヤナんとこは?」
「私は両親と一緒に、造船所で住み込みで働いているの」
 以前は港町で料理店を営んでいたのだけれど、洪水で店が沈んでしまったため、家族と一緒に造船所で雇ってもらったのだと、カヤナはクロイツに話した。
 カヤナは料理好きというよりは商売好きなようで、しっかりした経済観念を持っているようだった。
 2人は雑談をしながら少しも残さずに、綺麗に料理を平らげると、それぞれ代金を支払って外に出た。
「それじゃ、またね!」
「ああ、またな」
 その日はランチを一緒に楽しんだだけで、2人は笑顔で別れた。
「……さて、土産は、と……ブルーベリーパイにしとくか」
 自分はラズベリーの方が好きなのだが。
 クロイツは馴染みの店で、ブルーベリーパイを一つ買うと、軽い足取りで自宅へ戻っていった。


●彼が求めたプレゼント
 早朝。マテオ・テーペの麓から絶壁を見上げたレイザ・インダーは後悔した。
「いつも通りに登っていい? アホっぽくないところ見ててよ」
 彼女は、メリッサ・ガードナーは、この断崖絶壁をロープも使わず1人で登るというのだ。無茶すぎる。
 数か月前。レイザとメリッサは秘密の契約を交わしていた。
 メリッサがレイザの仕事を手伝う代わりに、レイザは当時立入禁止となっていたマテオ・テーペ登頂の力を貸すと。
 メリッサは、お弁当の入っているリュックサックをレイザに預け、彼の背を押して登山道に向かわせると、自分はマテオ・テーペに向き直る。
 同行させて失敗はありえない。
 真剣に見据えて、岩に手をかけた。

 メリッサの意思を尊重し、レイザは頂上で何もせずに待っていた。
 もしもの時に出来ることもなく、助けられる力もないことに、歯がゆさを感じながら。
「や……ったあ……っ」
 そして昼過ぎ。メリッサは誰の手も借りることもなく、自力で登り切った。
「登りきったら会えるっていいね。ずごく嬉しい! 幸せ!」
「凄いなお前。アホのくせに」
「レイザくん、一言多い!」
 笑い合った後、メリッサは座り込んだ。
「あー楽しかったぁ……。もう思い残すことは……」
 ほわーんとメリッサは微笑んでいる。
「いっぱいある~」
「あるのかよ……」
「うん、途中でルートに迷ったとこが気になるよ。
 でもまずお弁当食べたいな、もうエネルギー切れ1ミリも動けない」
 苦笑しながら、レイザはブロッコリー満載な弁当を広げ、茶を淹れて、メリッサにフォークを持たせる。
「……なんで俺がここまで世話してやらなきゃなんないんだ。お前はお姫様か」
「お姫様はクライミングなんてしないよー。うーん! 美味しい、最高!」
 彼女にとって、本当に、本当に幸せな時間だった。

 食事を終えて、疲れが随分と癒えた頃。
「はいコレ、欲しがってたものどうぞ」
 それは彼が欲しがっていた誕生日プレゼント――契約書だ。
「全然プレゼントっぽくなくて納得いかないけど……。そうだ、ちょっと屈んで?」
 訝しげに屈んだレイザの頭を、メリッサは優しく撫でた。

イラスト:クロサエ
イラスト:クロサエ

「お誕生日おめでとう。ここに生まれてきてくれてありがとう」
 そして緩く抱きしめる。
「……毎年親にされてたやつ。大人になってからもずっとね。
 弟はヤメロって逃げてたけど、私はわりと嬉しかったから」
 彼を優しく抱きしめていると、両親の温もりを、声を思い出してしまい淋しくなってしまう……。
「お前は俺の親か?」
「違うけど……」
「悪くないな、それ」
「……え?」
 意外な反応に、メリッサは驚いた。
「あ、今だけね、今だけ」
「母さん」
「なあに、息子よ」
「――汗クサイ」
 途端、メリッサはレイザを突き飛ばした。
「もーーーー。レイザくんデリカシーなさすぎー」
「親子の間に、デリカシーなんて必要ないだろ」
 レイザは声を上げて笑っていた。

 帰りは、一緒に登山道を歩いた。
 契約書なくなって、山から下りてしまったらもう彼を誘える理由がない。
 だから、本当は返したくなかった。
「ね、今日は今年の誕生日分を遅れて貰ったことにして、次は来年分前倒しで同行してよ。再来年分も、その次も!」
 メリッサの誕生日は冬であり、今年の誕生日はレイザと出会う前に終わっていた。
「挑みたいとこありすぎるの! 出来るうちにやれることをでしょ? ね? ね?」
 温泉を作りに協力した時とは違い、彼の生徒はここにはいない。
 女の武器、行使しちゃおうかな……と一瞬思ったメリッサだが『汗くさい』と言われたことを思い出し、思いとどまる。
 何とも言えない顔でメリッサがレイザを見ていると、レイザは吐息をついて柔らかな表情で言った。
「次は一緒に楽しめること、しないか?」


●童心に戻って
 サーナ・シフレアンはラトヴィッジ・オールウィンに付き添って、町の診療所で過ごしていた。
 彼女には別に部屋が用意されており、彼の症状が落ち着いてからは、彼女はその部屋にいることが多くなった。
「実は俺、インドアの遊びの達人なんだ」
 その日、ラトヴィッジは折り紙と空き箱を持って、サーナの部屋を訪れた。
「手作りで案外色々出来るものなんだぜ。……まあ、孤児院時代に姉さん達から教わった遊びなんだけども」
 テーブルの上に折り紙や箱を並べるラトヴィッジを、サーナは不思議そうに見ていた。
「ってな訳で、サーナ、俺と勝負してみないか?」
 ラトヴィッジが微笑みかけると、サーナは良く分からないまま、こくりと頷いた。
 まずは折り紙で作った力士で戦うトントン相撲。
 空き箱に土俵をペンで書く。
「力士の折り方は簡単だから、一緒に折ろう。サーナは何色の力士にする?」
「ええっと……」
 サーナが選んだのは黄色の紙だった。
「俺は金かな、派手で強そうだし」
 選んで折り始めてから、ラトヴィッジは気付く。
「しまった! 金色の紙は普通よりしなっとしてた……!」
 出来上がった紙の力士は、初めて折ったサーナの力士の方がしっかりしていた。
「これくらいのハンデじゃあ、負けないぜ」
 ラトヴィッジは指でトントン箱を叩き、サーナに遊び方を教えて、勝負する。
 紙の力士はやっぱりサーナが作ったものの方が少し強くて、ラトヴィッジは真剣なようだったけれど、サーナの方が少し多く勝利した。
「負けたー」
 と笑うラトヴィッジを、わざとハンデをくれたのよね? ……それともホントにちょっとドジなのかな、などと思いながらサーナは穏やかな顔で見ていた。
「お次は……」
 ラトヴィッジが折り紙でサイコロを作っていく。
 それから、大きな紙の両端に『スタート』と『ゴール』のマスを書いた。
「サーナ、これ何だと思う?」
「わからないわ」
「これはすごろくだ。サイコロを振って、出た目の数だけ進むんだ。到着したマスの指示に従うんだぜ」
 ラトヴィッジはスタートとゴールの間にマス目を沢山書き、いくつかのマスに指示を書きこんでいく。
「サーナも何か書き込んでくれ」
 促されて、サーナもいくつか書き込んだ。
「よしじゃ、サイコロ振るぞ~」
 折り紙で2人の分身の駒を作り、サイコロを振って勝負を始めた。
 ラトヴィッジは最初に到着したマスに書かれていたのは『早口言葉を言う』。
「隣のきゃ……アテッ」
 言い始めですぐに舌を噛んで照れ笑い。
 サーナの駒が到着したマスには『動物の鳴きまねをする』と書かれていて、サーナは『にゃんにゃん』と言って赤くなった。
 ラトヴィッジがくすっと笑うと、より赤く顔を染めて、咎めるような目で彼を見た。
 ゴールの特典はサーナが考えた。
 マスには『相手におねだりが出来る』と書かれている。
「先にゴールした方が勝ちだぞー」
「うん。負けないわ」
 サーナは自分に何かおねだりしたいことがあるのだろうか?
 そんなことを考えながらも、真剣にラトヴィッジはサイコロを振る。
「うおっ、やったー!」
 最初にゴールに到着したのは、ラトヴィッジ。
「私もゴールする!」
 しかし、サーナの駒が到着したのは、ゴールではなく『相手の好きなところを言う』と書かれたマスだった。
「……掴んでくれた手。騎士になると言ってくれた声。抱き締めてくれる腕。温かな胸……」
 言いながら、サーナの目にじわっと涙が浮かんでいく。
「ありがとう、サーナ。……サーナは楽しい時も泣いちゃうのか?」
「楽しいって感じることが……悪いことのように思えて」
「悪いことなんかじゃないよ」
 ラトヴィッジが頭を撫でると、サーナは目を閉じてゆっくりと頷いた。


●語られた秘話
 魔法入門の本を借りて、ウィリアムは熱心に魔法の勉強をしていた。
「……今の格好、似合ってるぜ」
 ふと、ウィリアムは同室のアーリー・オサードを見て言った。
「個人的な好みの問題かもしれんが」
 彼と出会った時。彼女は冷たい印象の化粧をして、露出度の高い服を纏っていた。
 しかしここでは、化粧は出来ず、服も与えられた地味なものしか着ることが許されない。
「でも合ってないでしょ、服装と本性が」
「そうだとしても、案外、素直な自分の気持ちを出すアーリーの事は気に入ってるぞ」
 ウィリアムの言葉に、アーリーは眉を顰める。
「自分の気持ちを、抑えて当り障りのない事言われるよりはずっといい」
「つまり気持ちを抑えて、当たり障りのない事も言わないのが一番ってわけね」
 捻くれた彼女の物言いに、軽く笑みを浮かべながら、ウィリアムは穏やかに問う。
「魔法教室で友達とか出来たか? 一応、偏見のなさそうな奴に声かけといたが」
「ああ、あの娘……大切な子を、巻きこんだらダメよ」
「大切な子? なんか誤解してないか?」
「彼女でしょ? 若い男女間の友情なんてありえないもの」
「いや……というか、アーリーは俺のこと何だと思ってるんだ」
「下僕」
 そうだったのか! とウィリアムは彼女の中の自分の位置づけを初めて知った。本心とは限らないが。
「アニサには友達いたわよ。表面だけの、浅い付き合いの友達」
「そうか。そいつらとは、趣味とか、やってなかったのか?」
「とくには。あなたは?」
「俺は……、釣りだったな。
 でかい魚を釣るとな、みんな喜んでくれてな」
「……そう。私、魚料理得意よ」
「なるほど、焼き魚か。アーリーの腕なら程よい焼き具合に仕上げられそうだな」
「焼き料理だけじゃないわよ、もう」
 アーリーが軽く睨み、なんだかおかしくなり、2人は顔を合わせて笑った。
「そういえばだ、アーリー」
 笑った後、ウィリアムの顔が真剣になる……といっても、彼の目は長い前髪で隠れてしまっていて、あまり表情が読み取れないのだが。
「俺の髪型が、根暗っぽいとか言ってたろ?」
「うん。根暗で陰険、陰湿そう」
「……くっ……今まで、忘れようとしてたんだが……
 世間様では……かっこよく……無いのか……?」
「は? 当たり前じゃない」
 アーリーの反応に軽く傷つくも、ウィリアムは咳払いをして気持ちを入れ替える。
「さて、この髪型の話をしよう」
「興味ないんだけど」
「まぁ、聞けよ損はさせないから!」
 そしてウィリアムは熱心に話しだす。
「この髪型については、いつも気前よく飯をくれてた兄ちゃんの髪型だ、その兄ちゃんは、人妻から金を貰って遊んで回ってて、飯をくれながら、その自慢話を何時もしてたんだ。そして、浮浪児の俺等、兄ちゃんかっけー! と大持ち上がりで、この髪型が量産された訳さ」
「…………………」
「んでだ、皆がこの髪型をやめていく中、皆それでいいのかって話が出てな……。それで、俺が、それを受け継ぐと……」
 そこまで話してウィリアムは気付く。
「全然いい話じゃないな……」
「どうでもいい話ね」
 はああと、ウィリアムは大きくため息をついた。
「髪型変えちまおうか……。
 前、前髪切ってやるとか言ってたろ、今度切ってくれよ」
「いいわよ、そこに座りなさい」
「今すぐじゃなくて、今度……って、アーリー何をしようとしてる!?」
 彼女は指の先端に火を熾そうとしている。
「この部屋に、刃物を持ち込めるわけないでしょう。髪全部、焼いてあげるから、大人しくしていないさい!」
「いや、髪型を変えるだけで、無くしたいわけじゃ……ちょっと待て!」
 ウィリアムの頭に触れるアーリー、慌てて抵抗するウィリアム
 それが今の、彼等の休日の姿だった。


●故郷
「今をエンジョイするのにそんなものは関係ねー」
 海の底で窮屈に思わないか? 先の事が気にならないか? 将来何がしたんだ?
 そんなことを聞いてくる者に、ロスティン・マイカンはいつもそう返していた。
「青春は今なんだぜ楽しまなくてどうする、将来は親の脛かじってりゃ食いっぱぐれる事は無いだろ」
 兄たちの前では決して言えない言葉だ。
 平日も休日も、ロスティンの行動パターンはいつも一緒。
 メイドに手当たり次第声をかけて、ナンパをしてまわっていた。
 今日のターゲットはあの娘。
 ミーザ・ルマンダと決めていた。
 実家から拝借した花束に、焼き菓子を持って、ロスティンは館にいるミーザに会いにいった。
「ああ、花は美しく咲き誇るが、それよりも可憐な女性の前では霞んでしまう!」
 裏庭にて、彼女を見つけたロスティンは、近づいて彼女の前で膝を折った。
「あなた様の美しさを際立たせる添え物でしかありませんがこれをどうぞ」
 掲げるように、花束をミーザに差し出す。
「ロスティンさん。綺麗なお花……これ、私がいただけるようなお花ではないですよ」
「いやいやいいんだよ。君のためにくすね……調達した花だから」
 言いながら、ロスティンはベンチに座る彼女の隣に腰かけて、彼女の綺麗な顔を覗き込む。
「ミーザちゃん驚いた?
 いやー、たまには貴族っぽい感じに喋らないと自分が貴族っていうのも忘れかねないからねー」
「ふふ、似合ってましたよ。今日はロスティンさんもお休みですよね? いいんですか、こんなところにいて」
「家は顔合わすと煩いから、ちょろまかす時以外は近寄らねーんで寮詰めだし」
「ご家族がいるんですね」
「あ、こっちのこと話してもつまんないだろうし、ミーザちゃんの故郷とか、思い出とか色々教えてくれない?」
 ロスティンがそう言うと、ミーザの表情が曇った。
「辛い思い出があるなら、俺が癒してあげるからさ。ね、どう?」
 ロスティンは彼女に体を寄せて、下心を隠して微笑む。
「んーと……。私のお母さん、大きなお屋敷の使用人だったんです。
 そのお屋敷の一番偉い人との間に出来た子が、私なんです」
 彼女の母は、仕えていた家の主の妾でさえなかった。屋敷を離れて密かにミーザを産み、1人で育てていたのだが、彼女がまだ幼い頃、屋敷の主の家族がミーザの存在に気づき、ミーザは屋敷に連れていかれ、母と離ればなれになったそうだ。
「義理の兄弟沢山いたんですよー。でも、その殆どが、洪水で亡くなってしまいました」
「そっか……。殆どってことは、何人かはここにいるのか?」
「えっ? あ、いえ……っ。生きている人もいるかもと希望持ってるんです」
「そうだな。可愛そうに。家族の分も、俺が君を慰めてあげるよ」
 ロスティンは彼女の細い身体に腕を回して抱き寄せた。
「はははは……私だけじゃなくて、みんなみんな……みんなみんな大切な人を失ったんですよね。洪水のせいで」
 ミーザが悲しげな目を、ロスティンに向けてきた。
「ロスティンさんは家族好きじゃないですか? 私も、好きじゃない家族沢山いました。私生児だったので疎まれていましたし。でも、みんないなくなってしまって、寂しいです。
 会えなくなるのは悲しいですよ」
 彼女の目には涙が浮かんでいた。
 そんな彼女を『重い』とも感じるけれど、あまり向けられることのない切々とした感情に、ロスティンも少しだけ感化される。
「大丈夫、俺が傍にいるさ」
 そっと彼女の頭を撫でる。なんだかそうしてあげたくなって。
「私だけのものに、なってくれないくせに。酷いです……あまり優しくしないでください」
 ぎゅっとロスティンの手を掴んで、ミーザはぽとりと涙を落とした。


●星の下の誕生日
 夏の終わりの時期。誕生日の夜に、アリス・ディーダムに誘われて、レイザ・インダーは彼女が宿泊している部屋――外れの館の2階の一室に訪れていた。
「どうですか? 似合っていますか」
 七夕の時。笹に短冊を飾りに行った時に着た母の浴衣姿だ。
「可愛いよ。食べてしまいたいくらいだ」
 レイザのそんな答えに、アリスは赤くなる。
「ええと、ではこちらにどうぞ」
 この部屋は実習生たちの休憩用に設けられた部屋であったが、アリスは最近、この部屋に泊って授業を手伝っていた。
「お誕生日おめでとうございます」
 ソファーに腰かけたレイザの前には、手作りのケーキ。
 レイザにろうそくの火を吹き消してもらい、切り分けて一緒に食べていく。
 甘さは控え目で、上品な味のケーキはレイザの口に合ったようで、アリスに感謝し、味わいながら食べていた。
「もう一つ、プレゼントがあるんです。……目、閉じてもらえますか?」
「なんだ、怪しいことじゃないだろうな」
「怪しいことってなんですか」
 笑い合いながら、レイザが目を閉じると、アリスは急いで準備をする。
 床に置いた照明に、寮から持ってきた無数の穴の開いた黒い紙を包む。
 そして、点灯すると――。
「もういいですよ」
 レイザが目を開けると、淡い光の玉が部屋の中に散りばめられていた。
 小さな、プラネタリウムだ。
 星空を見ることが好きだと言っていた彼に、どうしても見てほしかったけれど、寮に誘うことはできなくて……。
 ささやかだけれど、彼の心の癒しとなるように。
 そう願いを込めて、作ったものだった。
 手をかざして、アリスは光の玉――星の光を手のひらに映す。
「小さい頃は星を掴みたいと思ってたけど、今は手の届かない星に憧れます」
 そっと風を送り、外にいるような感覚を作りだしていく。
「久しぶりの、満天の星空だ」
 穏やかなレイザの声に、アリスの顔に笑みが浮かぶ。
「今、先生の一番欲しいものは何ですか? 私に出来ることならいいんですけど」
 しばらく考えて、レイザは口を開きかけるが、軽く首を左右に振った。
「今望むのは、お前達生徒の幸せ。欲しいものは、お前達が生きる世界。アリスも実習生として、後輩達の世界を取り戻すために、力を貸してくれるか?」
 はい、とアリスは頷いたけれど。
「ただ、実習生としてではなく……」
 そう言って、アリスはレイザを見詰めた。
「今日は朝まで一緒に居てもいいですか?」
 驚いたような目で、レイザはアリスを見る。
「……だから、男を誤解させるような言動は慎めと言ったはずだ」
「誤解じゃないです。星の下で、レイザ先生と一緒に眠りたいと思いました。素敵な夢が見れそうだから……」
 顔を赤らめながら、震えそうになる手を握りしめてアリスは言う。
「もう子供じゃないですよ。それとも私じゃダメですか?」
「お前は大人でもない。それに、俺はお前に相応しい男ではない」
 レイザは軽く眉間に皺を寄せて、自分を抑えるように続けた。
「そして、どんなにお前が魅力的でも、生徒に手は出せない」
 アリスは実習生として、ここでは教える立場にあるけれど、ここに集まっている一般の生徒の殆どが働きながら学んでいる自立した社会人であるのに対して、アリスは学業の一環で教えている学生であることに、変わりはなかった。
「生徒じゃなかったとしても、お前のことは大切にしたい。手を出せるのは後腐れない女だけだ」
 息をつき、レイザは寂しげな笑みをたたえる。
「ごめんな。実は自分に自信もなくてだな……使用人を外で待たせてる。俺が間違いを起こさないように」
 教師として、保護者としての立場を守りながらなら、時間が許す限り思い出を作っていきたいと、レイザは彼女に語った。


●親愛
 マーガレット・ヘイルシャムは、警備隊隊長のバート・カスタルを夕食に招待し、某小説執筆の為に目をつけていたロケーションの良い部屋に訪れていた。
 部屋のテーブルには、使用人たちに頼んで作ってもらった、豪華ではないけれど栄養価の高い料理が並んでいる。
 2人が席に着くと、温かいスープと、冷たい飲み物がグラスに注がれた。
「では、いただきましょう」
「それじゃ、遠慮なく。いただきます」
 共に料理を食べ始める。バートのマナーはイマイチだが、まあ及第点だ。
「最近ちゃんと食べていますか? 睡眠はとれています?」
「ん……」
 口に入れていたものを飲み込んでから、バートは答える。
「腹が減ったら食べてるし、寝れる時に寝てる」
 そう弱く笑う彼の顔には、疲労の色が現れている。
「ここを出て、弟さんに会ったら貴方のことを伝えると約束しましたが、貴方の兄は無理をし過ぎて倒れたなどと知らせたくはありません」
「といっても、頑張るしかないからな」
「そうですね。……差し出がましいことと言ってごめんなさいね。こういうのは慣れていないのです。
 他人から健康を心配されることはよくありますが、他人の健康の心配をしたのは、貴方が初めてなので」
「ええっと、心配してくれてありがとう。大丈夫、皆を送り出すまで倒れたりしないさ!」
「……そういうところが、心配なのです」
 今まで向けられたことのない、マーガレットの心配そうな目を見て、バートは戸惑いを覚えた。
「私の話も少し聞いてもらえますか?」
「え? 勿論」
「私はずっと他人と関わることから逃げてきました。
 普通に恋をして、結婚して、子を産んで母になり、老いて死んでいく。
 お前には無理だと……そんな身体じゃどうせ長く生きられはしない……そんな現実を突きつけられるのが恐ろしくて……だから傍観者になることにしたのです」
 マーガレットは生まれつき病弱であり、本人もこの年齢まで生きられるとは思っていなかった。
「傍観者に徹するのは楽でした。
 当事者たちがどんな運命を辿ろうと私には関係ないし、私がどうなろうと、また彼らには関係ない」
 手を止めて、バートは真剣に彼女の話を聞いていた。
「でも、もう駄目ですね」
 ふっと、マーガレットは吐息をついて、弱く儚い、切なげな笑みを浮かべた。
「私も傍観者ではなくなってしまいましたから。
 貴方が私より先に居なくなることに耐えられそうにないのです」
「大丈夫。言っただろ、君の事もちゃんと送りだすって」
 むしろバートのその言葉が、マーガレットを不安にさせる。
 マーガレットが真剣に、憂いを含んだ目で見ていると、バートは軽く目を逸らして言った。
「ごめん。俺、洪水の時、神殿で任務についてて、自分の家族……あいつの両親、守れなかったからさ、なんか大きな成果を上げないと、あいつ……弟に合す顔がないって思うことがあって」
 そういう自分の情けないところが、マーガレットを不安な気持ちにさせているのかもしれないと、バートは言った。
「情けない、などということはありません」
 自分に向けられた真っ直ぐな目、まっすぐな思いに、バートはどんな言葉を返したらいいのかわからず、密かに鼓動を高鳴らせるばかりだった。
「多くは望みはしません。だけど、せめて心配ぐらいはさせてください、カスタル卿」
「ええっと……と、とりあえず、そのカスタル卿はやめないか? 俺、君のことどう呼んだらいいのか実はずっと迷ってた。
 これからは、プライベートの時は名前で呼ぶようにするから、君……マーガレットにも、名前で呼んでほしい」
 身分は違うけれど、俺達、友達だろ? もう少し、距離を縮めたいんだとバートは薄らと赤くなりながら、マーガレットに言った。


●お休みの日
 バート・カスタルは非番の日も、詰所で過ごす事が多い。
 最近は自警団が町の警備に当たってくれているため、町よりも神殿や館に居ることが多くなった。
 そんな彼の、稀な1日休みの日。久しぶりに町の宿舎に戻った日のこと。

「こんにちは、バートさん」
 ピア・グレイアムは、実家のパン屋から焼きあがったばかりのパンを持って、バートの部屋を訪れた。
「ん、こんにちは」
 部屋から出てきたバートは、無地のシャツにズボンの普段着で、どこかボーっとした顔であった。
 髪にはしっかり寝癖がついている。
「もしかして、お昼寝中でした? 起こしてしまったようでしたら、申し訳ありません」
「昨晩からずっと寝てた。ははははっ、起こしてくれてありがとう」
 笑みを浮かべたバートの腹が『ぐ~っ』と大きな音を立てた。
「昨晩からって……ご飯、ちゃんと食べてますか……?」
「んー、昨日の昼ごろ何か食べた気が」
「丸一日何も食べてないのですか。あっ、よかったらパン、バートさんにお土産に持ってきたので、いかがですか」
 ピアがバスケットを持ち上げると、焼きたてパンの良い香りがバートの鼻腔をくすぐった。
「食う食う! っとここじゃなんだから食堂行こう」
「こちらの宿舎の調理場は、お借り出来ますか?」
「あ、うん。何か作ってくれたら嬉しい」
 期待を込めた目でバートがピアを見ると、ピアの顔に笑顔が広がる。
「ふふ、それでは先に行っていますね」
 ピアは食堂の場所を聞いて、先に向かうことにした。

 今の時間、食堂には誰もいなかった。
「どうぞ」
 襟付きのシャツに着替え、髪を整えて現れたバートの前に、ピアは野菜のスープを出した。
 食べやすいように野菜を細かく刻み、刺激のない優しい味に仕上げた。
 お茶と、それから自宅から持ってきたパンも、テーブルに広げる。
 ピアが得意とするクロワッサン、それから肉饅頭。
「お客さんから教えてもらったもので、中に肉や野菜を細かくしたものが入ってるんですよ」
「ありがとう! ピアも一緒に食わないか?」
「私は家で食べてきましたので。全部どうぞ」
 テーブルの上の料理は、ピアの食事の2食分くらいはあるのだが、激務なバートが必要とする食事の1食分程度の量しかないだろう。
「そっか。それじゃ遠慮なくいただきます!」
 言って、バートはまずクロワッサンを食べて「君が焼いたパンは、本当に美味しい」と、嬉しそうな笑みを浮かべる。
 それからスープを飲んで、息をつき、肉饅頭を食べてお茶を飲む。
「食べ終えたら、ゆっくり休んでくださいね。あ、でも夕飯もちゃんと食べてくださいね。皆バートさんを頼りにしていますし、……ええっと、私も、バートさんが元気なお顔されてたら、嬉しいなって」
「ありがとう。こうして気遣ってくれるピアや皆に、元気でいてほしいから頑張るよ」
 微笑み合いながら、ふとピアは思った。
 バートは港町出身のはずだが、実家や家族の話題が出てこない。
「バートさん、ご出身はこの港町ですよね? ご実家は……」
「俺の実家は海に近かったから、もう海の中。港町、全部沈んじまうんだってな……ここも」
「はい」
 この宿舎も……ピアの家のパン屋も。
 箱船出航の時には、沈んでしまう。
 2人は顔を合わせて、寂しげに微笑み合った。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね」
 バートが全て平らげると、ピアは席を立った。
 彼に少しでも長く休んで欲しかったから。
「……あ、元気になったら、改めて、遊びに来てもいいですか?」
「うん、もちろん」
 バートは宿舎の門までピアを送った。
「今日はホント、ありがとう! 気を付けて」
 そして笑顔で手を振って別れる。
 互いが元気であることを、健やかな未来が迎えられるよう願いながら。


●全員で
 1人トレーニングに勤しんでいたレイザ・インダーのもとに、騎士団員のナイト・ゲイルが訪ねてきた。
 レイザはナイトを部屋に入れると、汗をぬぐい休憩用の椅子に腰かけて、ナイトを向かいに座らせた。
 対応していた一連の事件が片付いた後、ナイトは仲間や囚人から様々な話を聞いた。
 あの事件のようなことは、今後も起きるだろう。誰かを生かすために、誰かを切り捨てなければいけない、そんな状況も訪れるかもしれない。
 初めてレイザと話をした時のことが思い浮かび、彼の言葉が、今更ながら響いていた。
「水の神殿による障壁と火山の状況が余り芳しくないようだ。
 それでも俺は全員で生き残る為に力を尽くす、そして必ず全員で生き残る」
 レイザを前に、ナイトは改めてそう言った。
「その出来もしない理想を、俺に話す意味がどこにある」
 と、レイザは不機嫌そうに返す。
「いや、火山に行くって話を聞いたからそこでヤバくなっても何とかするんでよろしくって事を言っておこうかと」
 ナイトは穏やかにそう言うが、レイザは不機嫌そうな顔のまま目を背けている。
 ただ、反論も、否定もしてこなかった。
「それと知ってたら教えて欲しいんだけど、火の魔力が関係している火山を抑えるなら火の神殿じゃないのか? なんでここには水の神殿があるんだ?」
「神殿を建てたウォテュラ王国は、水の魔力の活用に秀でた国だ。だから、水の魔力で抑えている」
「それでも、火の力を抑えるのなら、火の魔力を増幅した方が良くないか? だってお前ら、広範囲に火を熾したり、消したりしてたじゃねえか」
 火災であれ、水の魔法を増幅して水を集めて消すのと、火の魔法を増幅して火で消すのではずっと後者の方が早く、エネルギー消費も少ないはずだ。
「で、神殿は一つじゃなくて複数あった方が良くないか? 何で作らなかったんだ? 今からでも出来るのか?」
「神殿には水の魔力を増幅する魔法具があるんだが、これはそう沢山作れるものではない。魔法具の作成に必要な魔法鉱石は限られた場所でしか発掘できず、埋蔵量も限られているからな」
「でもその魔法鉱石、火山の近くで採掘できるんだろ? 今まで採掘がおこなわれていなかった理由は」
「……王国がアルディナ帝国に火山の存在を隠したかったからじゃないのか」
 領土拡大を狙っていた帝国に、魔法鉱石や火の魔力の力を渡したくはなかったため、王国はこの地を田舎のままにしておいたのではないかと、レイザは語った。
「そうか……。あとさ、ナディア・タスカってどんな人? 普通に話しても大丈夫か?」
「ナディア? お前あいつに興味があるのか」
「俺魔力ないから火山の深部にはいけないし、それなら神殿とかそういった場所を調べて手掛かりを得ようと思って。
 神殿関係者の事を予め知れたらなって……女性の事ならレイザ先生、という話を小耳に挟んだから知ってるかと」
「ナディアは魔法学校生時代の同輩だ。学校では典型的な優等生タイプだったが、プライベートでは乙女チックなところがあってな、今も素敵な王子様の迎えを待っているんじゃないか。とはいえ、お前のような子供は相手にしないだろうが」
「そういう興味じゃねえって」
 大体俺は子供ではないと言い、ナイトは立ち上がった。
「休んでいかなくていいのか。お前もあまり休めてないんだろ」
「俺が宣言した事は容易じゃない、休んでる暇なんかないよ」
 そう言い、ナイトはドアへと向かう。
「邪魔して悪かった、またな」
「……ナディアには話しておく、普段通り話して大丈夫だ」
 と、こちらに目を向けずにレイザが言った。
 礼を言い、ナイトは外れの館へと向かう。
 隊も自分も抱えている問題が多すぎて、体がいくつあっても足りない――。


●ひとりの行動が未来を
 とある診療所の一室で、サーナ・シフレアンは過ごしていた。
 彼女の存在は関係者以外には、隠されている。
「よう」
 そんな彼女のもとに、1人の男性が訪れた。
 リベル・オウス。サーナと、サーナの騎士であるラトヴィッジがこの診療所で匿われていることを知る人物だった。
「ラトヴィッジの様子見と念のための薬を渡しに来た」
 部屋には入らず、リベルはドアの前で薬をサーナに渡す。
「ラトヴィッジの部屋に行くのなら、一緒に」
「いやいい。お前に頼んだ方が、あいつも喜ぶだろ。
 話は聞いている。随分回復したそうだな」
 リベルの言葉に、不安そうな顔ながら、サーナは首を縦に振った。
(あいつがあぁなったのは、結果論ではあるが俺の考えが至らなかった故の失態。そいつをきちんと贖うのが俺の流儀だ)
 今にも泣き出しそうな、沈んだ表情の彼女を前にして、リベルは密かにそう思う。
「こっちは、お前に」
 リベルはラトヴィッジ用の薬とは別に用意した、小瓶2つをサーナに差し出した。
「一つは乾燥させた花が入ったやつで、湯に混ぜて飲むと心身が落ち着く効能がある。淹れるなら自分でやるかラトヴィッジに頼め。俺が淹れるとどうにも風味が落ちる」
 小瓶を受け取って、サーナは不思議そうに見ている。
「もう一つは花の砂糖漬け。ちなみに味はどっちも姫さまの侍女のお墨付きだから安心しろ」
「ありがとう……ございます。私も、多分ラトヴィッジも、あなたに感謝しています。最善を尽くして下さったと思います。ありがとう、ございます」
 言って、サーナはリベルに頭を下げた。
「よせ。お前に関しては、事情は理解している。同じのをアーリー・オサード用にも用意したが、こっちは渡せそうもねえな」
「アーリーには、私も会えません。話、聞いています。アーリーがすみませんでした」
 一旦顔を上げてすぐに、サーナは再度リベルに頭を下げた。
「何故お前が謝る」
「友達なんです。私と知り合わなければ、彼女はあんなことしなかったかもしれません」
「……ぶっちゃけ、事情はどうあれあの女の魔法で俺が怪我をしたのは事実で、そいつを今でも許しちゃいねえ」
 炎で焼かれた時の痛みと怒りを思い出し、苦々しい顔でリベルは続ける。
「だが、あの女も今では協力者。それに、あいつの力はこれからも必要だし、サーナも同様だ。それなら、少しでも精神的に落ち着ける状況を作れるよう俺なりに力を尽くすだけだ」
(まあ、どっちにも心の支えになってる立派な騎士サマがいるようだから、杞憂だとは思うがな)
 サーナ、アーリー、それぞれの側にいる男性を思い浮かべながら、リベルは心の中でそう続けた。
 サーナは小瓶を手にしたまま、暗い顔で何かをじっと考えていた。
 診療所の所員に聞いたところ、彼女はラトヴィッジ以外とはあまり話さず、1人でなにやら考え込んでいることが多いという。
 リベルはサーナに何を考えているのかと問いかけはしなかった。
 どうでもよいとさえ思っていた。
「これから先は俺達一人ひとりの行動が未来を左右するのは明白。だから自分が成したい未来のために後悔しない選択をするんだな」
「……なしたい、みらい……」
 憂いを含んだ目を、サーナはリベルに向けた。
「分からない」
「俺はもっとわからん。お前が成したい未来は、お前にしかわからない」
 そう言うと、リベルはドアから離れる。
「じゃあお邪魔虫はそろそろ退散するわ」
「ありがとう、ございました」
 サーナのか細い声が響いてきた。
 多分また、彼女は頭を下げているのだろう。
 ウォテュラ王国の王家の血を引く彼女が、一般庶民である自分に。
 おかしな話だと、リベルは苦笑した。


■月が綺麗
 オーマ・ペテテは空を見上げていた。
 ただ、空とは言っても本当の空が見えるわけではない。海に沈んだただ中で魔法によって障壁を張っているこのマテオ・テーペでは、空は見えない。見えるのは障壁のむこうにある海水と、今日も時間通りに沈んでいった人工太陽だけだった。その人工太陽が沈んでしまえばただ真っ暗な夜が訪れる。
 しかし、それは少し前までのことだった。今のマテオ・テーペでは、夜はただの闇ではない。
 見上げた視線の先には、沈んだ人工太陽のような、だがそれよりは少しだけささやかな光が見えている。人工太陽と同じように魔法で打ち上げている人工の月だ。
 先ほどオーマが協力者たちと共に打ち上げたそれは、彼の尽力によって実現に至ったものだった。
 視線を空から戻すと、オーマは歩きはじめる。
 薄暗がりの中で歩みを進めるのは、狭くなったマテオ・テーペ内でもっとも人の多い造船所周辺だ。
 目指す場所は、ここを通った先にある館。そこにはある意味恩人であるレイザ・インダーがいるはずである。
 彼に会って、礼が言いたかった。それが今日の目的だ。
 人工月を打ち上げるところまでたどり着いたきっかけは、レイザが警備隊へ話を持っていくべきだとアドバイスしてくれたから。あのアドバイスが無かったら、夢はかなわなかったかもしれない。
 少なくともオーマはそう思っていた。
 そんなことを考えながら歩いていると、ふと近くにいた親子の会話が聞こえてくる。
 ――月、きれいだねぇ。
 まだ小さな娘がそう言って空を指差している。親は一緒になって月を見上げて頷いていた。
 立ち止まり、改めて辺りを見回してみる。他にも、人工月がまだ珍しいのか、空を見上げている人は何人かいた。
 そんな様子が、自分のしたことには意味があったのだと改めて実感させてくれる。
 少しだけ気分の高まりを感じながら、オーマは再び歩きはじめた。
 領主の館には、程なくついた。応対に出てきたメイドと思われる女性に、レイザと面会したいと告げる。
 程なく、レイザが出てくる。
 彼は外で話でもしよう、と館の中庭にオーマを誘った。
「改めてお礼を言わせてもらいます。警備隊を紹介してもらったおかげで、無事人工月を打ち上げることができました」
 話はなんだ、と促してきたレイザに早速お礼を言う。
 空を見上げて、あれが人工月か、とレイザは呟くように言った。
 そして、ゆっくりとかぶりを振る。
「俺はヒントを与えただけだ。実際に人工月の打ち上げまで実現したのはお前の力だ」
 今度は強い言葉で、彼はそう言った。
「すまんが、俺は打上げには殆ど協力できない。その上でこんなことを言うのはおこがましいかもしれんが、その実行力を他のことにも生かして、皆に本当の空を見せるための力になって欲しい。よろしく頼む」
 その言葉は、オーマの胸のうちに強く響いた。


■孤軍奮闘、道程は長く
 トゥーニャ・ルムナは魔法学校へと向かっていた。
 その足取りは速く、顔は焦燥に満ちていた。
 彼女の目的はずっと変わらない。なんとかして囚人たちの居場所を作ってあげたかった。それだけだった。
 しかし、現実はそう簡単にはうまくいかない。
 まずは廃墟となっている場所を探し、手直しして受け入れ先にしようと考えたのだが、元々、この町には廃墟となっているエリアなどなかった。しかも以前より障壁が小さくなっているので、空き家などもほとんどない。その中でも空き家と言えるものがあるのは、ほどなく沈む予定のエリアくらい。そんなところを手直ししたところで、すぐに海の中に沈んで消えてしまうだろうから意味はなかった。
 そこで、本来は住む場所の確保と同時に行おうと考えていた田畑の整備に先に取りかかろうと考えた。案としては、レイザ・インダーに働きかけて囚人たちの魔法制御訓練として田畑の整備を取り入れてもらおうというものだった。
 トゥーニャはそれならば、囚人たちに直接関わるわけではないのだから大丈夫だと考えていた。自分は、それを遠くから眺め、仲間の皆が元気でやってる姿を確認することが出来ればいい、そう思っていた。
 だから魔法学校へと向かったのは、レイザに会うためである。
 しかし。
 学校に着いたトゥーニャは、そこでもまた自分の思惑がうまくいかなかったことを思い知らされることになる。
「レイザ先生なら、休みの日はこちらにはいませんよ。ほとんど自宅にいらっしゃるはずです。ご用件、お聞きしましょうか?」
 対応してくれた学校関係者と思われる女性は、レイザ先生はいらっしゃいますか、と聞いた彼女の問いかけに対してこう答えてきた。自宅、というと領主の館になるはず。そこにはトゥーニャは近づけない。解放されるときに騎士団とそう約束をしたからだ。
 仕方なく、その女性に魔法制御訓練のことをかいつまんで話す。
 すると、それなら囚人たちの魔法制御訓練を一緒に担当している方がいるので呼んできます、と返された。
 待っていると、しばらくしてやってきたのは、レイザよりも随分年かさの男だった。
 温厚そうな、落ち着いた雰囲気の男性といった感じだった。
 トゥーニャは彼に対し、囚人たちの魔法制御訓練に田畑の復興をさせてはどうか、という自分の考えを話す。
「今は、訓練で新しいことをするなんて無理ですよ。魔法学校の寮も沈む予定になってるからそちらの対応もあるし。ただ……囚人たちの訓練は、今後は生徒たちと一緒にやっていくかもしれませんね。一部の人は、生徒たちとも仲良くやっているようですし。そうだ、寮代わりに今囚人たちがいる館を共用で使うのもいいかもしれません。まあ、今思いついただけのアイデアですが」
 提案はあっさりと否定されてしまう。しかし、一つだけ分かったことがあった。
 それは、囚人たちは魔法学校の生徒たちとは比較的うまくやっているようだということだ。
 魔法学校が、トゥーニャが今も仲間だと感じている彼らを受け入れてくれるところになるかもしれない。
 そう思えただけでも、収穫があったと言えた。

 



タイトルの前に◆がついている物語は、冷泉みのり
●がついている物語は、川岸満里亜
■がついている物語は、鈴鹿高丸が担当いたしました。

マスターより
こんにちは、冷泉です。
休日シナリオへのご参加、ありがとうございました!
ご指名くださった方とご指名なしの一部の方を担当しました。
メインシナリオとは違った、のんびりした一日を過ごしていただけたら嬉しく思います。
夏休み期間も、もう終わりですね。
私は学生時代、宿題をやった記憶がほとんどありません……全力で遊んだ思い出ばかりです。
宿題、どうしてたんでしょうね?
それでは、メインシナリオでまたお会いしましょう。

マスターの川岸満里亜です。
今回は、ご指名いただきました分全て執筆も担当させていただきました。
ご依頼、ご指名ありがとうございました!
NPCと絡んでいただくと、NPCからもPCにアクションかけたくなってしまいます。
しかしそのほとんどは、ジスウ・セイゲーンという敵に敗れてしまうのです。
それでは、引き続きメインシナリオのアクション楽しみにお待ちしております!

こんにちは、鈴鹿です。
今回、お二人の休日シナリオを担当させていただきました。
七夕特別シナリオに続いて執筆させていただきましたが、ご満足いただければ幸いです。
この後もちょこちょことですが書かせていただきますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!